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 九州北部駆け足歩きの旅 
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九州北部
駆け足歩きの旅

 
(12.5.14〜5.19)



行程の概略
  千葉〜東京〜小倉〜門司港
下関小倉(泊)〜別府
〜大分〜豊後竹田(泊)〜阿蘇
熊本(泊)〜新鳥栖
吉野ヶ里公園〜佐賀〜諫早
〜島鉄本社前〜島原〜諫早
長崎
(2泊)〜博多
〜西鉄福岡〜二日市
〜西鉄五条〜太宰府
〜西鉄福岡〜博多〜東京
〜千葉


MAP(九州北部)

門司港 (5.14)
 鹿児島本線の起点
 
0 kmポストのある門司港駅 
 門司港駅切符売り場の
 古めかしい案内標示
 1914年に建築された
 門司港駅の木造駅舎
 ブルーウィングもじから見る
 レンガ造りの旧門司税関
 ブルーウィングもじから見る
 門司港ホテル
 現在はギャラリーやカフェと
 なっている旧門司税関正面
 帝政ロシアの大連オフィスだった
 国際友好記念図書館
 レトロ展望室からの門司港駅
 旧三井倶楽部方面
 レトロ展望室から見る
 関門橋と和布刈方面
 国内最大の歩行者専用跳ね橋
 ブルーウィングもじ
 全長780m、国内唯一の
 海底人道トンネルの入口 
 関門トンネル人道の
 中間地点に書かれた県境標示

初めての九州の旅は小倉から始めることにしましたが、新幹線で到着後の半日を利用して明治の雰囲気が残る門司港駅の周辺を歩き、更に足を延ばして国内では唯一の海底の歩道トンネルをくぐって下関に渡り、平家にまつわるいくつかの施設を訪れてみました。

門司港駅や旧門司税関、国際友好記念図書館などの建物も印象的でしたが、海底を歩いて九州の一角から本州に戻るのはちょっとした冒険のようで、多少わくわくしました。休日ならば門司港駅のそばから人道入口近くまでトロッコ列車が走るのですが、残念ながらこの日は運休で、やむを得ず年に数回しか乗らないタクシーのお世話になりました。

人道トンネルは意外に幅が狭く(
6mくらい)ジョギングを楽しむ人々が目立ちました。数百メートル離れているはずの関門橋を走る車の音がまるですぐそばのように聞こえたのは驚きです。水が音波を高速でよく通すことの現れでしょう。


 下関 (5.14)
 関門トンネル人道の下関側入口
 みもすそ川公園に立つ
 源義経八艘跳びの像
 義経の従者武蔵坊弁慶の像と
 関門橋
 四国連合艦隊との戦い
 (馬関戦争)で用いられた砲台
 安徳帝とともに入水した
 清盛の妻(二位の尼)の辞世
 壇ノ浦海岸から見る
 関門橋と瀬戸内海方面
 幼くして壇ノ浦で入水した
 安徳帝を祀る赤間神宮
 赤間神宮拝殿の右端から見る
 奥拝殿と廻廊
 赤間神宮の創建前から
 鎮座している鎮守八幡宮
 赤間神宮拝殿わきに建てられた
 平家水没者の供養塔
 赤間神宮境内に建立された
 平家一門の墓、七盛塚
 平家ゆかりの琵琶法師
 耳なし芳一を祀る芳一堂
 安徳帝を慰めるため
 竜宮城の形に造られた水天門
 日清講和条約締結の場だった
 旧春帆楼(現記念館)
 日清講和条約の全権大使
 伊藤博文と陸奥宗光の像

関門トンネルの人道を抜けると早速義経主従の像のお出迎えです。時折霧雨はあるものの特に支障はなく、お目当ての赤間神宮に向かいました。社殿の造りや印象が厳島神社によく似ているのは、やはり平家による造営だからでしょう。幼い安徳帝が壇ノ浦で二の尼に抱かれて入水した模様は歴史に疎い私でもよく覚えています。安徳帝の墓にはちょうど工事中のため入ることができませんでした。


小倉 (5.14〜15)
 小倉城への入口
 鴎外橋(水鳥の橋)
 小倉城北口への橋から見る
 お堀と噴水
 日本の伝統的な建築様式
 書院造りの小笠原会館
 小倉城の天守閣
 社会派文豪の業績を讃えて
 造られた松本清張記念館

小倉では小倉城と清張の記念館を予定していました。小倉城は50年ほど前に再建されたもので現在はハイテク化されているそうです。庭園が有名ですが、実際に訪れてみるとごく小さく季節の関係もあって特に目立つものは感じませんでした。

松本清張記念館には清張の著作がぎっしりと展示されていて、清張が大好きな私には何よりの贈り物でした。彼が書いた作品は決して単なる興味本位の推理小説ではなく、政界や財界、経済界などの暗部を鋭くえぐり出すものであり、その後の作家たちの模範となるものだったと思います。
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別府 (5.15)
 灰色の熱泥が沸騰する
 鬼石坊主地獄
 鶴見岳の爆発でできた
 海地獄の神秘的な青い熱泉
 温泉熱を利用した
 熱帯性睡蓮の咲く池
 泉熱90゜の山地獄
 至る所から噴気が上がる
 山地獄
 温泉熱で飼育されている
 フラミンゴ
 幻想的で妖怪でも現れそうな
 かまど地獄三丁目
 泉熱80゜の泥の地獄
 かまど地獄四丁目
 気温や天候により色が変化する
 かまど地獄五丁目
 真っ赤な熱泥の
 かまど地獄六丁目
 泉熱98゜、噴気で
 何も見えない鬼山地獄
 鬼山地獄で飼育されている
 100
匹のワニの代表
 無色で噴出し空気に触れ
 青白色に変わる白池地獄
 3040分毎に数分間噴出し
 天井がなければ30mに達する
 間欠泉、龍巻地獄
 真っ赤な粘土が煮えたぎる
 国内最古の血の池地獄
 真っ赤な粘土が煮えたぎる
 国内最古の血の池地獄

別府と言えば大多数の人々は先ず温泉を思い浮かべると思いますが、その後の日程の関係で地獄巡りだけを予定しました。龍巻と血の池の二つの地獄だけが少し離れた場所にあるため、ほかの地獄がまとまっている鉄輪(カンナワ)との間のバスによる往復がスムースにいったことは幸いでした。意外なことに血の池地獄に隣接して私好みの素敵なレストランがあり、ゆっくりと食事をしバスの時間まで休憩できました。ネットで調べてもこのあたりにはそのような施設は見当たらなかったのです。

八つの地獄はそれぞれ特徴があり、時折の霧雨にもかかわらず結構楽しめました。団体旅行の多かったのがちょっと気になりましたが、この程度は我慢するしかありません。
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豊後竹田 (5.15〜16)
 典型的な山城である
 岡城跡への入口
 岡城跡への登りはじめ
 まだ序の口の坂道
 歴史をとどめる
 岡城跡の石垣
 大手門跡直下の
 息も切れる急坂
 岡城の大手門跡
 イノシシの子どもと
 遭遇したあたり
 二の丸跡の展望台から
 見るくじゅう連山
 二の丸跡に立つ
 滝廉太郎の銅像
 岡城の二の丸跡
 岡城本丸跡
 隠れキリシタンの
 洞窟礼拝堂跡
 殿町の武家屋敷通り
 荒城の月などのメロディーが
 流れる廉太郎トンネル
 現在は記念館になっている
 滝廉太郎の旧宅
 豊肥本線豊後竹田駅

これから先の予定と宅急便の所要日数の関係で泊まることにした竹田ですが、岡城跡を除けば特に興味を惹く場所は見当たらず、ホテルという名はとても似合わない民宿に泊まることになりました。食事は地元の食材をふんだんに使った素晴らしいものでしたが、コインランドリーが埃まみれだったのには驚かされました。

正真正銘の山城だった岡城跡に登るのにはかなりのエネルギーを要しました。写真に示したような急坂や急な石段がこれでもかこれでもかと続き、さすがの私でも息切れを感じたくらいです。

山好きの私には展望台からくじゅう連山を眺めるのも大きな楽しみで、滝廉太郎の銅像のそばでそれが実現できたのはたいへん嬉しいことでした。それにしても、これほど嶮しい場所に造られた岡城は恐らく難攻不落だったに違いなく、今このように荒れ果てた文字通りの”荒城”になっていることを思うと感慨深いものがあります。

巻物風に作られた珍しい案内図を手に下山した頃はもう中腹の事務所にも人影はなく、夕暮れの近づく中を次の目的地を目指して歩きました。
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阿蘇 (5.16)
 阿蘇山西へのバスから
 中腹に広がる緑の草原
 阿蘇山西へのバスから
 最新の噴火口だった米塚
 黒い溶岩が広がる
 阿蘇中岳の山腹
 凹地につの火口が並ぶ
 中岳から噴き上がる噴煙
 中岳の噴煙の合間から
 コバルトブルーの火口湖
 噴煙を通して見え隠れする
 中岳の火口壁
 有毒ガス発生時は風向き
 により入山禁止になる中岳
 非常の場合に火山弾から
 身を守る頑丈なシェルター
 シェルターがいくつも並ぶ
 阿蘇中岳の火口周辺
 草千里展望所から見る
 米塚
 展望所から、渇水時は消える
 草千里ヶ浜の池
 バス停から見る広大な
 草千里と噴煙を上げる中岳
 草千里の乗馬体験施設
 豊肥本線
 阿蘇駅のホーム
 阿蘇駅に到着した
 九州横断特急
号熊本行き

この旅に出る前の予報では最初の二日間は雨模様とのことだったのですが、実際には二日間とも時折の霧雨程度で何ら支障がなく、竹田に着く頃にはすっかり晴れてしまいました。その結果、最も好天であって欲しい阿蘇では文句なしの青空に恵まれたのです。折角遠くから来ても火口が見られないことも多いと聞く阿蘇なので、この点は本当に幸運だったと思います。

実は、阿蘇駅に到着した時点では火山ガスで入山禁止という状況だったのです。ところが、バスがロープウェイ駅に着く頃には風向きが変わって解除になりました。中々まともには見ることができないという中岳の火口を飽きるほど覗くことができた訳で、正についているとしか言いようがありません。火口湖は見事なエメラルドグリーンで草津白根山にある湯釜の毒々しい色とは対照的ですが、有毒ガスを含む噴煙が風向きによっては観光客を大きな危険に巻き込むことを考えれば、やはり油断は禁物の大自然の営みなのです。だからこそ、そのような状況では全ての観光客を下山させるようになっています。九州という場所のせいか中国や韓国の観光客が多く、
20年前の日本人と同様の振る舞いをするのにだいぶ悩まされました。

バスに
分ほど乗って移動し草千里に立つと、阿蘇カルデラの広大さがよく分かります。ここからは外輪山は全く見えませんが、遙か昔に大爆発があったこの地域に今では多くの人々が住んでいることを考えると、天文学や地質学、考古学などと私たちとのタイムスケールの余りにも大きな差を思い起こされます。ここでは、コインロッカーがなぜか横長の敷地の一番外れにだけ設置されていて、ちょっと不便にも感じました。

阿蘇駅に戻って熊本まで
両編成の九州横断特急に乗りましたが、皮肉なことに指定席車両は中国や韓国の観光客で満員で、私が乗った自由席車両はガラガラだったのには、思わず笑ってしまいました。ホームで彼らの集団に出会ったときは立ち通しの時間半を覚悟していましたから。
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熊本 (5.16)
 JR熊本駅
 熊本市電
 行幸橋のたもと、戦国時代
 の名将加藤清正の銅像
 熊本城の南西側の入口
 櫨方(ハゼカタ)門
 熊本城の南面防御の要
 飯田丸五階櫓
 二種類の方法の石積みで
 傾斜が違う”二様の石垣”
 本丸御殿を支える土台と
 なっている石垣
 本丸御殿大広間下から
 眺める天守閣
 敵を阻むため登り難く造られた
 本丸広場への石段
 日本三名城の一つ
 優雅で堂々たる熊本城天守閣
 籠城時の居住環境まで
 意図して建てられた小天守
 西側正面から見る
 熊本城の大天守と小天守
 怪力の若者の伝説が残る
 五郎の首掛石
 東側から見る夕日を背にした
 熊本城天守閣
 藩主の居間などがあった
 本丸御殿
 異例の地下通路
 御殿下の闇り(クラガリ)通路
 加藤清正が自ら植えた
 本丸御殿前の大銀杏
 小西行長との関連もあり
 三の天守の名も持つ宇土櫓
 熊本城の鬼門である北東隅に
 設けられた不開門
 加藤神社の鳥居
 熊本発展の基礎を築いた
 加藤清正を祀る加藤神社
 名護屋城から移した
 文禄の役記念、清正の旗立石

ホテルにチェックイン後、熊本城に向かいました。写真で分かるように見事なお城で、加藤清正の築城術の素晴らしさが私のような歴史オンチ、建築オンチにもよく分かります。天守閣も飯田丸五階櫓も西南戦争で焼失したため復元されたものですが、堂々としているばかりでなく均整のとれた美しい建築物になっています。

意外だったのは、肝心の加藤清正を祀る加藤神社が城内ではなく別な場所に建てられていたことです。神社の人の話ではどうやら戦災を避けるために移されたようですが、城の北隅にある不開門を出てしばらく歩いてから急坂を登った先なので、案内図を見てもルートが簡単には見つかりません。

熊本城ですっかり時間をかけてしまい、もう一つの目的地だった水前寺成趣園はキャンセルすることにしました。せめて近くから覗いてみようと市電で出掛けたのですが、構造上外から覗くのは無理でした。それでも私にとっては決して無駄足ではなく、市電に乗ること自体が一つの楽しみだったのです。また、市電の車内で地元の人とお喋りしたとき大地震のことが話題になり、地震、台風、津波がこの災害列島に住む私たちの共通語になっていることを今更ながら認識させられました。

201614日を皮切りに、その熊本と周辺地域で活断層由来の強い地震が続き、多くの家屋が倒壊し人々が恐怖の日々を送る状況になってしまいました。確かに市民の誇りである熊本のシンボル熊本城を立派に再建することも大切には違いありませんが、やはり突然の災害で途方に暮れている一般住民の生活再建を最優先にして欲しいと思います。
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MAP(九州北部)

吉野ヶ里歴史公園 (5.17)
 長崎本線
 吉野ヶ里公園駅
 吉野ヶ里歴史公園の
 東口ゲート付近
 外敵の侵入を防ぐバリケード
 としての逆茂木の柵
 集落や施設を守る目的で
 その周辺に設けられた環濠
 兵士が侵入者を見張る
 南内郭の物見櫓
 至近距離に物見櫓がある
 王と妻、娘夫婦の住まい
 王や支配階級の協議や
 会合の場所、集会の館
 絹糸を取り出す養蚕が行われた
 中のムラ養蚕の家
 鍵型に折れ曲がって造られた
 北内郭の入口
 北内郭を侵入者から守る
 物見櫓
 クニ全体に関わる
 会議や祭りなどの中心、主祭殿
 祭りの道具を保管したり
 身を清めるなどした斎堂
 北内郭の竪穴住居内部
 甕棺で土葬された当時の
 模様の再現(甕棺墓列)
 重要物資を貯蔵した倉庫群
 倉庫を守る兵士たちの住まい
 市長(イチオサ)の住まいも兼ねた
 倉と市の中心市楼
 市の倉の内部

2011年に訪れた青森の三内丸山遺跡は縄文時代の遺跡だったので、これとの比較をしてみたいこともあって吉野ヶ里遺跡を予定に加えました。やはり、縄文の人々の素朴な暮らし振りとはかなり違うことが目につきます。住まいもさることながら、ムラなどの構成、生活物資の貯蔵管理など、どれをとっても大陸の進んだ文化の影響を受けた形跡が色濃く感じられました。

事前に調べたときは駅からのルートが曲がりくねっていましたが現地に行ってみると立派な道が整備されていて、ゼンリンの情報が必ずしも最新ではないことが分かりました。


 島原 (5.17)
 諫早駅ホームの
 島原鉄道キハ
2500
 島原鉄道車両側面の
 島原の子守唄のイラスト
 大三東駅付近の
 車窓から見る有明海
 寒ざらしが名物の
 築
100年を超すしまばら水屋敷
 アーケードで鯉が泳ぐ
 水のきれいな島原の町
 お堀端から見る
 島原城の西の櫓
 北側から見る安土桃山様式の
 気品ある島原城天守閣
 領民に時を知らせるため
 に造った時鐘楼(復元)
 島原城大手門がモチーフの
 島原鉄道島原駅
 島原駅の前に立つ
 島原の子守唄の母子像

長崎には夕方までに着けばよいとの考えから、島原に寄ることをプランに加えてありました。島原鉄道、島原城、それに雲仙普賢岳が主な関心でしたが、残念ながら普賢岳はチラッと見えただけでした。

観光施設としての役目も負っているとはいえ、復元された島原城の美麗さと偉容には圧倒されるものがあります。また、しまばら水屋敷で口にした寒ざらしの美味しさは格別のもので、あとでもう一度食べたいと思い駅の近辺で探しても見つからず、残念な気持ちを抱えて島原をあとにしました。
 
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長崎 その
稲佐山と浦上方面
 (5.17〜18)
 長崎本線のターミナル
 長崎駅の車両止め
 長崎駅ホームに鎮座する
 御朱印船の模型
 ゴンドラが小さすぎて
 大混雑の稲佐山ロープウェイ
 稲佐山から見る
 長崎駅周辺の夜景
 ホテルの窓から見る
 早朝の長崎港
 ホテルの窓から見る
 早朝の稲佐山
 ホテルの窓から見る
 早朝の浦上川
 駅前の横断橋から見る
 朝の長崎駅
 処刑された信者を悼む
 日本二十六聖人殉教の碑
 長崎平和会館
 平和会館前の
 原爆殉難教え子と教師の像
 原爆資料館の展示
 破壊し尽くされた町
 原爆資料館の展示
 破壊し尽くされた町
 原爆資料館の展示
 核戦争の惨禍の繰り返しを拒む
 平和の母子像
 原爆犠牲者慰霊と
 世界平和を願う不戦平和の塔
 原爆被災地に生き抜いた
 桜を讃える記念碑
 偉大な母の慈悲心と
 傷心の子どもを表す祈りの像
 投下中心地に立つ
 黒御影石の原爆投下中心碑
 原爆犠牲者に豊かな水を
 与えるための平和の泉
 戦火からの復興を祝う
 戦災復興祈念の子どもの像
 被爆者の冥福と世界恒久
 平和を願う平和祈念像
 動員学徒、女子挺身隊の
 原爆殉難者慰霊碑
 恒久平和の確立を
 世界に訴えるための長崎の鐘
 廃墟に再建されたカトリック
 浦上(教会)天主堂
 爆風と熱線で無残に破壊
 された浦上教会の石像
 原爆症の身を平和に捧げた
 永井博士の記念館
 永井隆博士の直筆になる書
 「如天愛人」
 永井隆博士の直筆になる
 被災直後の浦上教会

長崎に到着した17日の夜、展望台のある稲佐山に登って夜景を眺めることにしました。ロープウェイ駅への交通手段は往復とも便が指定された循環バスだけになっています。ところが、ロープウェイの乗り場に着いてみると長〜い行列ができていたのです。やっと順番がきてゴンドラを見るとその小さいこと、これでは待ち時間がかかるのは当然です。結局、やっと頂上に着いたときは指定のバスに間に合う下りロープウェイの発車まで僅か15分しか残っていませんでした。とても施設屋上の展望台まで上る時間はなく、一応夜景が見られる場所までの行き帰りは走ることになり、いくら元気な私でもこれにはかなり参りました。竹田の岡城跡への山登りよりもずっと辛い経験でした。これでは当然いい写真が撮れる筈もなく、ご覧の通りのお粗末なものです。

18日は、快晴の下先ず原爆の爆心地であった浦上地区に出掛けました。町の至る所に犠牲者を弔い世界の恒久平和を求める施設や像、碑などが見られ、広島の場合と同じく人々の思いの強さを感じさせられます。あの有名な平和祈念像の前や浦上天主堂にも多くの観光客や修学旅行の団体が集まっていました。

戦争の悲惨さを実際に体験した人が年々いなくなっていく現在、その実態や平和の尊さをどうやって若者に伝えたらよいのかは非常に難しいことだと思います。核家族社会のため家庭でそのような話題が登場する機会は少なくなり、学校でも教える側が既に全く戦争を知らず、生まれながらにして豊かな日常を享受した世代が中心になってしまいました。一応の知識はあっても体験していないことはやはり心に訴える力が弱いと思います。

それに加えて、原爆投下の日も敗戦の日もともに夏休み中であるため、若者だけでなく社会全体の関心がそのような(どちらかというと暗く悲しい)事柄よりも他の華やかな出来事、例えば高校野球などに向いてしまいがちだと思います。こうして、色々な事件や災害と同じく最も重要な事実までもが風化していくのは、ただ悲しいばかりでなく恐ろしいことです。

現在の核爆弾と比べればまるでおもちゃのような破壊力だったこのときの原爆ですが、アメリカがこれを日本に落とした理由は表向き戦争の終結を早めることとされています。しかし、当時のソ連を威嚇して戦後の覇権を手にすることが第一の目的であったことは、わざわざ広島と長崎に別種の原爆を落としたことでも明らかです。しかもいまだに原爆の残虐さを認めず、無差別の絨毯爆撃とともに一切反省を示さないのが日頃「人道主義」を掲げているアメリカの正体なのです。

モノカネ至上の生き方も含めて功利的、退廃的な風潮を長年にわたる洗脳で日本人に植え付けてしまったことに対する怒りも含めて、私のアメリカに対する強い嫌悪感の源がここにあるのです。
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長崎 その
諏訪神社〜グラバー園
 (5.18)
 延々と石段が続く
 諏訪神社の参道
 諏訪神社の参道半ばで
 睨みを利かす狛犬たち
 諏訪神社の神門(大門)
 への最後の上り階段
 諏訪神社の境内で
 勇ましくいななく神馬
 神門の前から見る
 諏訪神社の社殿
 照り返しがまぶしい
 真っ直ぐなシーボルト通り
 シーボルトの旧宅跡から見る
 シーボルト記念館
 日本最古のアーチ型石橋
 再建された眼鏡橋
 古代ローマの技術も加味された
 重厚な眼鏡橋
 グラバーの弟が住んでいた
 南山手レストハウス
 レストハウス付近から見る
 起伏に富んだ長崎の町
 レストハウス付近から見る
 グラバースカイロード
 日本最古の木造ゴシック様式の
 大浦天主堂
 大浦天主堂の内部
 大浦天主堂の内部
 祭壇への通路
 グラバー園に設けられている
 動く歩道
 外国船乗組員の宿泊所
 旧三菱第二ドックハウス
 旧三菱第二ドックハウスの室内
 ドックハウスのベランダから見る
 長崎港方面
 隠れキリシタンの
 苦悩と救いを象徴する祈りの泉
 木骨石造でバンガロー形式の
 旧リンガー邸
 旧リンガー邸の前から見る
 長崎港
 旧リンガー邸の室内
 「蝶々夫人」を演じた
 世界的名歌手三浦環の像
 オペラ「蝶々夫人」の作曲者
 プッチーニの立像
 日本最初の西洋料理レストラン
 だった旧自由亭
 西洋料理発祥の地の記念碑
 日本最古の木造西洋風建築
 旧グラバー邸
 北側から見る旧グラバー邸
 旧グラバー邸前から見る
 長崎市街
 旧グラバー邸前から見る
 長崎港と稲佐山
 日本の近代化に貢献した
 トーマス・グラバーの胸像
 長崎伝統芸能館の展示
 長崎くんちで用いる曳舟
 長崎伝統芸能館の展示
 くんちで用いる白龍と青龍

浦上地区を歩き回ってからすし詰めの市電で諏訪神社に向かいました。大鳥居から社殿までの長い石段は、下から見上げるだけで大抵の人はため息をつくでしょう。幸い私にはそれほど抵抗はなかったものの、途中で見かける現地の老人たちの買い物姿からは当然日常の苦労が偲ばれます。

バイクも通れない階段だらけの場所が多い長崎の人々がどうやって生活物資を手に入れているのかが、とても気がかりになりました。石段を上り終わって目にする諏訪神社の社殿は壮大なもので、伝統の長崎くんちの賑わいがいかばかりかと想像するだけでも楽しくなります。

この日はかなり気温が上がり、シーボルトの旧宅跡までは相当距離もありましたが、途中の茶店で食べた冷たい麩まんじゅうに救われました。シーボルトの旧宅跡からは市電で移動し、川面にくっきりとメガネ形に映る眼鏡橋を見たあとまた市電でグラバー園の下の石橋に回り、昼食を予定していたレストランを探したのですがだいぶ前に移転したとのこと、ネットの情報もきちんと更新されなくては無意味です。何とか近くで簡単な食事を済ませ、斜行エレベーターを経て大浦天主堂に行き、その後第一ゲートからグラバー園に入りました。

ピンカートンの帰りをひたすら待って「ある晴れた日に・・・」と歌った蝶々さんの悲劇を題材としたオペラは余りにも有名ですが、その舞台となったグラバー邸の一帯からは長崎港が間近に見渡せます。園内にはそれぞれ由緒ある建物があり、鎖国時代に唯一外国との交易がされていた長崎ならではの異国情緒を味わうことができます。この日の暑さは名物のカステラアイスで辛うじて凌ぎ、次の目的地の東山手に向かいました。
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長崎 その
東山手〜出島
 (5.18)
 中国の思想家孔子を祀る
 長崎孔子廟の入退場門
 孔子廟の庭園に架かる
 石造の碧水橋
 儀門(正門)の前に並ぶ
 狛犬(福建石獅)
 大成殿(正殿)前に並ぶ
 
72賢人の等身大の石像
 木造の孔子廟正殿である
 大成殿
 長崎を象徴する美しい
 石畳の坂道、オランダ坂
 オランダ坂に沿って並ぶ
 東山手の洋風住宅群
 狭い階段と急坂が連続する
 東山手から新地への道
 新地中華街の南門
 新地中華街の東門
 1820年頃の出島を再現した
 模型(実際の
1/15
 陳列されている鉄製大砲
 石造の日時計
 復元された
 二番蔵と三番蔵

グラバー園を出て先ず目指したのは、中国人が建てた海外で唯一の廟である孔子廟です。今は日本はおろか本家本元の中国でもすっかり忘れ去られた孔子の教え、人が生きるための根本である「仁義礼智信」が門内に掲げられ、中庭には72人の賢人の等身大石像が立ち並び、東洋哲学の館としての威厳が具わっているように感じました。

ここからかなり急な石畳のオランダ坂を上ると洋風の住宅が数多く見られます。その後はいくらか平坦になりますが、新地中華街に下るあたりは急な石段と坂道が連続するので、足腰の弱い人ではとても無理だと思います。新地は横浜の中華街と比べればかなり小さいものでした。

新地からかつてオランダ商館が立ち並んでいた出島に向かいましたが、さすがの私も暑さの中を長時間歩いたため疲れが積もり、ミニチュアの出島以外はじっくりと見る気力もなく、市電でホテルに戻って翌朝に送る荷物をまとめ、早めに床に就きました。
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 太宰府 (5.19)
 長崎駅発車直前の
 特急かもめ
787系博多行き
 西鉄福岡(天神)駅の
 大牟田行き西鉄電車
 西鉄電車五条駅
 両脇に礎石が残る
 観世音寺南大門への参道
 九州随一の仏教彫刻の宝庫
 観世音寺講堂
 入母屋造り瓦葺きの
 簡素な観世音寺金堂
 鑑真和上によって開かれた
 戒壇院の山門
 出家者に戒律を授ける
 戒壇院の本堂
 戒壇院の鐘楼
 太宰府の長官だった
 大友旅人の歌碑
 広大でのどかな
 太宰府政庁跡(都府楼跡)
 太宰府政庁正殿跡の
 モニュメントの礎石
 太宰府政庁跡に点在する
 巨大な礎石
 東脇殿跡の礎石群
 西鉄電車太宰府駅前
 太宰府駅前から
 太宰府天満宮への参道
 天満宮への参道の
 半ばに立つ鳥居
 第一の太鼓橋
 第一の太鼓橋から見る
 鯉の泳ぐ心字池
 第一の太鼓橋に続く平橋
 第二の太鼓橋から見る
 心字池
 楼門前の鳥居
 菅原道真を祀る
 太宰府天満宮の華麗な楼門
 小早川隆景が寄進した
 豪奢な天満宮の本殿
 天満宮本殿前の
 おみくじ結び所

五泊が限度なので博多に泊まる訳にはいかず、太宰府だけ訪れて帰る予定でした。太宰府では天満宮は後回しにして先に政庁跡と五条近辺の社寺に行きました。観世音寺も戒壇院もいかにも古く歴史を感じさせる建物です。政庁跡には巨大な礎石が散らばるだけで、ここに九州一円を治める重要な政治の中心があったなど、想像すらできません。

その後はお決まりの天満宮詣でです。参道を歩く人々が多く、お土産店も両側にびっしり並んで、まるで浅草寺の前を思わせるほどでした。
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旅のプランは全て自力で作り上げるのが私の流儀ですが、今回は最初で最後の九州の旅ということで特に念入りに細かく作りました。その甲斐あって一部を除けばプラン通りに進み、無事に終えることができました。五泊六日の長期間なので、ある程度天気変化の流れが分かってからホテルを予約するつもりでしたが、ネットでの空室状況チェックで不安な状況になり、かなり前に予約を済ませることになりました。列車の利用が中心の私には駅近くのホテル、それに今回は長期のためコインランドリー設備のあるホテルが一番で、候補のホテルがふさがってしまうと困るのです。結果的には五泊のうち竹田以外は全てJR九州ホテルになりました。駅に直結しているので行動拠点としては最適です。

既に書いたように幸い天候には恵まれ、メインの阿蘇と長崎は快晴でした。その代わり見事に日焼けし、帰って
10日後に谷川岳の周辺を歩き回ったときの日焼けと重なって、腕時計の跡がまるで江戸時代の島帰りの罪人のような模様になってしまいました。

83歳になろうという身での一人旅は以前ならホテルでも敬遠したのですが、今はそのようなこともなく受け入れてくれます。不況による客離れが原因なのか、それとも高齢者に対する認識が変わったのかは知りませんが、いずれにしても有り難いことです。人は退職後の生き方(生きる姿勢)によってどんどん差が開いていくものなので、当然と言えば当然なのですが相変わらず退職を終着点と思い込んで自分から老けていく人が多いようです。会社などの組織による束縛から解放される退職後こそ、全てを自らの意志で設計し実行できるのに、たった一度の人生を隠居ムードで無駄にするのは何よりも勿体ないことだと思います。

一人旅の良さはワイワイガヤガヤの好きな人には分からないと思いますが、五官で感じるものを独り占めできる点にあります。素晴らしいものに接したときの感動を自分自身の心に封じ込めることによってそれは深く大きく成長し、快い余韻がその後長く残ります。仲間と一緒に喜び合うのが最高と思う人が多いのも分かりますが、そうではない変わり者も少数ながらいるのです。

喜びや感動は口に出した途端に薄まってしまう場合もあると思います。そのとき発せられた言葉による表現で感動の内容や水準が縛られてしまうからです。「言葉では表せない・・・」場面もあるのです。更に言えば、ある現象についての感じ方が複数の人の間で完全に一致することは考えられず、それに近い友人を得るのは砂丘で小さなダイヤを探すようなものであることも事実です。

ところで、昨年の四国、中国の旅でも感じたことですが、市電が主要交通機関として残されている町を見ると本当に羨ましくてなりません。岡山、高知、松山、広島、それに今回の熊本、長崎、どの町でも老若男女が盛んに利用しています。それにひきかえ、東京という巨大過ぎる田舎では、車の通行に邪魔だという理由でかつては四通八達していた便利で安全な市電をほぼ完全に撤去してしまいました。現在では博物館役の荒川線が残っているだけです。

これはヨーロッパ各国が路面電車を大切にしているのとはまるで逆の発想に基づく暴挙だと思います。面積当たりの車密度から見れば世界に冠たる車社会になってしまった今では、もう「公共交通の衰退→車への依存→更なる公共交通の衰退」という悪循環システムが確立してしまったため歯車は戻せませんが、本当に残念なことです。五官の衰えていく高齢者が危険を冒して車に乗れば事故が増えるのは当たり前なのに、国土交通省も警察もそうした結果だけを問題にして原因の根本的な解決に取り組もうとはしません。こうして、運転する人々は便利さと安楽の代償に身体能力、特に足腰の強さを失い、運転者以外の人々は四六時中モラルを欠いた無謀ドライバーによる事故の危険に怯えて日々を送ることになるのです。
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