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 四国と山陰・山陽の旅
   岡山〜大歩危〜かずら橋 
   高知〜四万十 
   伊予大洲〜松山 
   倉敷〜松江〜益田 
   秋芳洞〜宮島 
   広島 


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四国と山陰・山陽の
欲張り歩き

(11.4.20〜4.26)


行程の概略
  千葉〜東京〜岡山
大歩危(泊)〜祖谷〜大歩危
高知(泊)〜四万十〜宇和島
伊予大洲松山(泊)〜岡山
倉敷(泊)〜松江(泊)〜益田
〜山口〜秋芳洞〜新山口
〜広島(泊)〜宮島広島
〜東京〜千葉

M9.0という未曾有の巨大地震が東北の太平洋岸を襲った日からようやくヶ月のこの時期に旅に出るのは、全国的に自粛ムードが色濃く漂っていることもあってかなり気持ちが揺れたのは確かです。しかし、別な観点から言えば、年齢的にボランティアなどが無理な私のような人間が元気に歩き回ったとしても、一概に非難されることではないのではとも思います。

この旅のプランは大地震よりだいぶ前に完成し、ホテルや列車の手配も済んでいました。今回は初めて四国を訪れるのが主な目的でしたが、折角出掛けるのならと既に以前の記憶が薄れている山陰と山陽も回ることにしたのです。確かに
80歳を超えた身での日はちょっときついですが、例によって心臓と脚は健在なので大丈夫だろうという気持ちでした。ただ、当初予定したサンライズ瀬戸の運行が”無計画停電”などで乱れるとプランが全て狂ってしまうので、大歩危に宿泊することに変更しました。


MAP(四国・中国)

岡山〜大歩危〜かずら橋
岡山後楽園
 電線が全て撤去されている
 岡山駅前桃太郎通り
 旭川沿いの遊歩道から
 見る鶴見橋
 旭川を渡って後楽園へと
 通じる鶴見橋
 日本三庭園の一つ
 岡山後楽園正門への入口
 落ち着いたたたずまいの
 後楽園寒翠細響軒
 後楽園の遊歩道から見る
 沢の池と砂利島
 後楽園の遊歩道から見る
 沢の池と唯心山
 後楽園の園内を一望できる
 歴代藩主の居間延養亭
 栄唱橋から見る延養亭、
 能舞台としだれ桜
 二色ヶ岡への遊歩道から
 見るしだれ桜
 遊歩道から見る、後楽園を
 取り巻く旭川と岡山城
 瀬戸大橋を渡る特急南風の
 車窓から振り返る児島半島
大歩危峡
 大歩危峡遊覧船乗り場から
 見下ろす観光遊覧船 
 遊覧船乗り場から見る
 四国三郎吉野川の急流
 大歩危峡の空を彩る
 華やかな鯉の吹き流し
 大歩危峡の岸壁を形成する
 特徴的な礫質片岩
 川下りの観光遊覧船から
 見る大歩危峡の流れ
 ラピス大歩危のテラスから
 涼しげに泳ぐ鯉の吹き流し
 対岸を走る土讃線の特急
 南風
号アンパンマン列車
祖谷(イヤ)のかずら橋
 国の指定重要民俗文化財
 祖谷のかずら橋のたもと
 たもとから見る全長45m
 幅
2mのかずら橋
 14m下を祖谷川が流れる
 三奇橋の一つかずら橋
 かずら橋から眺める
 祖谷川の下流方向
 かずら橋を造っている
 強靱な野生のかずら
 無人駅大歩危の駅長
 こなきじじい(児啼爺)

岡山で後楽園を訪れるのは四国巡りが終わった後の予定でしたが、天気予報によるとその頃は雨に見舞われそうなので、四国に渡る前に寄ることにしました。20年前にはゆっくり見ることができなかったので、今回は十分に時間を取りました。

是非渡ってみたい祖谷のかずら橋をバスで訪れる部分がプラン作りで一番のネックでしたが、大歩危峡のホテルに泊まった翌日に峡谷の船下りを済ませたあと無事にかずら橋まで往復し、次の目的地である高知へと向かうことができました。

驚いたのは、かずら橋を渡り終わった所に地元テレビ局のスタッフが待ち構えていて、関東から来たことを知ると「この時期に旅をするのはどういう気持ちからか?」と半ばとがめる感じで質問してきたことです。彼らにしてみれば一方で悲惨な状況にある多くの人々が苦しんでいるのに・・・ということなのでしょうが、被災者への思いを自粛という形で表すのが最善という思い込みにはかなり抵抗を感じました。
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高知〜四万十川
高知、桂浜
 はりまや橋交差点に設置
 されているカラクリ時計
 はりまや橋の停留所に
 停車中の高知市電
 龍馬記念館付近から見る
 桂浜と龍王岬
 龍馬記念館近くに立つ
 土佐の英雄坂本龍馬の像
 龍王岬に建てられた
 海神を祀る祠
 龍王岬の展望台から見る
 桂浜の西に続く砂浜
 龍王岬の展望台から見る
 紺碧に広がる太平洋 
 龍王岬の展望台から見る
 桂浜の全景
高知城、はりまや橋
 自由民権運動の旗手
 板垣退助の銅像
 高知城初代藩主山内一豊
 の妻と名馬の像
 二の丸広場から見上げる
 高知城の天守閣
 街路樹に南国の雰囲気を
 感じる早朝の高知駅前通り
 国道32号線に架かる御影
 石造りのはりまや(播磨屋)橋
 江戸時代の太鼓橋を模して
 造られた新はりまや橋
 地元の杉材で造られた
 愛称クジラドームの高知駅
四万十川、沈下橋
 土佐くろしお鉄道中村駅で
 派手な装飾の宿毛行き列車
 清流四万十川の証
 鮮明に映る岸辺の緑
 川下側から見る長さ292m
 幅
4.2mの佐田の沈下橋
 増水時は水中に沈むため
 頑丈に造られた沈下橋の橋脚
 佐田の沈下橋から見る
 四万十川の上流

大歩危からの列車が高知に到着する直前の土佐一宮で事故のため運転打ち切りになり、ホテルに到着したあとの予定を考えてやむを得ずタクシー頼みです。

チェックイン後は先ず桂浜に行き、夕暮れの近づく桂浜の風景や龍馬像などを見てから高知城に登り、郷土料理店で本場のカツオづくしを堪能してからホテルに帰りました。

翌朝は、列車の発車前の時間を利用して新旧のはりまや橋とその近辺を走る市電の撮影のため早起きして出掛け、目的を達成したあと鯨の肋骨を思わせる珍しい構造の高知駅から中村に向かったのです。

佐田の沈下橋で一番気になったのは、このような欄干のない構造では人や車が川に落ちる事故が少なくないのではということです。地元の人は慣れていても観光客などはどうでしょうか? 
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伊予大洲〜松山
伊予大洲
 肱川橋から見る
 大洲城と大洲市民会館
 和洋折衷の造りが珍しい
 おおず赤レンガ館
 貿易で財をなした豪商が
 建てた臥龍山荘の庭園
 臥龍山荘の茶室
 風光明媚な不老庵
 武家屋敷となまこ壁の土蔵が
 好対照の明治の家並み
 煉瓦色のカラー舗装が
 施されたおはなはん通り
松山、道後温泉と大街道界隈
 風格ある木造三層楼、国の
 重要文化財道後温泉本館
 夏目漱石や正岡子規も訪
 れた道後温泉本館の玄関
 赤いギャマン窓の振鷺閣を
 戴く三層の道後温泉本館
 優雅な桃山時代風の
 皇室専用の湯殿又新殿
 道後温泉駅前の広場放生
 園のシンボル、カラクリ時計
 松山市電道後温泉駅前に
 陳列された坊ちゃん列車
 正宗寺境内に復元された
 正岡子規の生家(記念館)
 子規記念館前に展示された
 坊ちゃん列車の客車
 子規と野球との深い関わり
 を示す「子規と野球の碑」
 藩主の子孫久松家の別荘
 純フランス様式の萬翠荘
松山城、坊ちゃん列車 他
 加藤嘉明が築いた
 松山城の筒井門
 松山城本丸広場から
 見下ろす松山市街
 松山城本丸広場から見る
 大天守と小天守
 松山城本丸広場から見る
 大天守
 大街道停留所に停車中の
 坊っちゃん列車と後続市電
 松山駅で発車を待つ特急
 しおかぜ
22号岡山行き
 瀬戸大橋進入直前の車窓
 から瀬戸大橋と塩飽諸島

宇和島から松山に行く途中、伊予の小京都と呼ばれている伊予大洲に立ち寄り、古い町並みや豪商の別邸などを回りました。

松山では日本最古の温泉である道後温泉に泊まり、漱石や子規関連の施設も訪れました。最近ブームを起こした「坂の上の雲」関連の施設にも一応行きましたが、さほどの興味は感じられなかったというのが本当です。松山城は流石に見応えのあるお城でした。ちょっと残念だったのは愚陀仏庵が土砂崩れで見学不可能だったことです。

松山城を始めとする主な施設が大街道周辺の狭い範囲に集中しているのが有り難く、半日ちょっとながら中身の濃い散策ができました。坊ちゃん列車は料金のせいか専用状態で、車掌の制帽を被っての写真撮影など思いがけない経験ができました。今回の旅で松山だけが朝方だけ小雨模様でしたが町歩きなので特に支障はなく、延々一週間の長旅としては本当に運がよかったと思っています。
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MAP(四国・中国)

倉敷〜松江〜益田
倉敷、美観地区
 観光客と市民の交流の場
 倉敷物語館の長屋門
 観龍寺を経て鶴形山への
 石段と鶴形山トンネル
 海の守護神等を祀る
 鶴形山の阿智神社
 阿智神社境内に鎮座する
 巨石、鶴石
 江戸時代の大型町家
 井上家住宅
 日本の紡績産業の歴史を
 秘める倉敷紡績の記念館
 一面のツタに覆われた倉敷
 アイビースクエアの外壁
 新緑が目にしみる
 倉敷川の岸辺
 高砂橋から眺める倉敷川
 全国各地の玩具や工芸品
 を扱う日本郷土玩具館
 倉敷川で
 川舟流しを楽しむ人々
 中橋と江戸時代の米造り
 土蔵を利用した倉敷考古館
 ギリシャ神殿を思わせる
 大原美術館の正面
 江戸時代の豪商で美術館の
 創設者の邸宅、大原邸
 現在は資料館となっている
 大橋家の土蔵
 時代を先取りした和洋折衷
 の造りの大橋家の応接間
伯備線、松江歴史地区
 倉敷駅に進入する伯備線
 特急やくも
号出雲市行き
 特急やくもの車窓から見る
 山陰の名山伯耆大山
 松江しんじ湖温泉駅 映画
 
Railways の脇役一畑電車
 初代藩主松平直政を祀る
 松江城二の丸の松江神社
 堀江吉晴が築いた名城
 美しい松江城
 望楼式五層六階の偉容を
 誇る松江城の天守閣
 元は武家屋敷の小泉八雲
 (ラフカディオ・ハーン)旧居
 武家屋敷当時の面影を保
 つ八雲旧居の純和風の庭
 小泉八雲旧居の
 床の間と屏風
 極度の近視で特注された
 小泉八雲の机と椅子
 塩見縄手の通りに並ぶ
 松江藩中級武士の屋敷
 松江城のお堀に突き出た
 特徴的な枝振りを見せる松
 松平不昧公の茶室
 茅葺き入母屋造りの明々庵
宍道湖、日本海
 さざ波立つ宍道湖に映る
 最後の光芒
 夕闇迫る宍道湖の彼方で
 黒雲から脱出を図る夕日
 夜のとばりが下りた宍道湖
 北岸の温泉街の灯
 周布付近の車窓から見る
 日本海と岩礁
 三保三隅付近の車窓から
 見る遙かな高島
 益田駅に到着した山陰本
 線特急スーパーまつかぜ

倉敷のホテルは美観地区のそばにあり、朝食後まもなく出掛けたこともあってかなり早く予定したコースを回り終えました。美術館に多くの時間を割くほどの素養は持ち合わせていないため、江戸情緒豊かなこの町の印象を写真に収めるだけの散策になりました。結局、予定より時間早い特急で中国山地を縦断して松江に向かうことになったのです。

車窓から山陰の名山として名高い伯耆大山を眺めながら松江に到着、ホテルにチェックイン後は
時間多く確保できた散策時間を最大限に生かして松江城から歴史地区を回り、有名な宍道湖の夕日を鑑賞できる絶好ポイントまでを延々と歩きました。幸いにも比較的好天に恵まれ、何とか納得できる写真を撮ることができました。

翌日は日本海沿いを山陰本線の特急で益田まで行き、山口線に乗り換えて山口で下車、その後バスで秋芳洞に向かいました。車窓から眺める日本海の水の色が印象的で、明るく輝く太平洋とは違いひどく新鮮に感じました。
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秋芳洞〜宮島
秋芳洞、秋吉台
 東洋屈指の大鍾乳洞
 秋芳洞の標柱
 秋芳洞の洞窟入口に
 架けられた屋根付きの橋
 石灰分が大規模に皿状に
 沈着して形成された百枚皿
 滴り落ちる石灰分を含んだ
 水滴が長期間に造り上げた
 富士山状の石筍 広庭
 石灰分を含む水滴による昔
 の傘屋の天井状の傘づくし
 鍾乳石と石筍がつながって
 天井を支える形の大黒柱
 高さ15m4mの巨大な
 石灰華の滝 黄金柱
 デュマの小説「モンテクリスト
 伯」を思わせる見事な石筍
 巌窟王
 太古は海底のサンゴ礁だっ
 た石灰岩の台地 秋吉台
 白い石灰岩と緑が織りなす
 カルスト台地 秋吉台
 秋吉台展望所のモニュメント
宮島、厳島神社
 早朝のホテルの窓から見る
 広島駅到着直前ののぞみ
 宮島フェリーから見る
 厳島神社と大鳥居
 宮島フェリーの桟橋から見る
 豊国神社と五重塔
 宮島の随所で見かける鹿
 ようやく見えてきた宮島のシ
 ンボル高さ16m重さ60トンの大鳥居 
 寝殿造りの粋を集めた
 朱塗りの名社 厳島神社
 世界文化遺産の看板も誇
 らしげな厳島神社の東回廊
 東回廊から見る
 厳島神社の御本社祓殿
 厳島神社 
 御本社拝殿の回廊
 厳島神社の拝殿
 東回廊から見る
 厳島神社の大鳥居
 客神社の回廊から見る
 豊国神社五重塔
 東回廊から見る鏡の池と
 豊国神社五重塔
 厳島神社
 本殿正面の高舞台
 厳島神社御本殿祓殿から
 見る拝殿と能舞台
 床板の隙間で高潮による
 損傷を防ぐ厳島神社の回廊
 福島正則が寄進した
 厳島神社の能舞台
 西回廊から見る
 かつては勅使が渡った反橋
 宮島西松原から見る
 厳島神社の大鳥居
 宮島西松原から見る
 大鳥居と対岸の廿日市
 西松原の緑に囲まれて鎮座
 する平清盛を祀る清盛神社
 多宝塔への石段わきの
 大きなうろを持つ樹木
 上下が方形と円形の構造
 を持つ桜の名所 多宝塔
 多宝塔そばから見る
 厳島神社と豊国神社
 多宝塔から見る大鳥居

秋芳洞は20年前に訪れたときの記憶がほとんどなく、秋吉台に登ったのは初めてなので結構楽しむことができました。帰りは、”こだま”や”ひかり”ではなく珍しい鹿児島中央発の”さくら”に間に合うようバスで新山口に向かい、最後の夜は広島駅直結のホテルでゆっくり休みました。

最終日の散策プランは午前中が宮島、午後は広島市内です。宮島を訪れるのは初めてでしたが、厳島神社は確かに素晴らしい芸術品だと思います。潮の関係で海上に浮かぶ姿は見られませんでしたがそれでも十分に美しく、世界文化遺産に列せられたのも当然です。弥山に登る時間はなかったものの、西松原や多宝塔からの景色も中々のもので、宮島を堪能することができました。
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広島
広島市電
 広島駅前停留所の
 広島市電(旧型車)
 広島駅前停留所の
 広島市電(新型車)
 広島駅前停留所の
 広島市電(最新型低床車)
 広島市電宮島口行き
 の車内風景
原爆関係の施設と展示
 世界連邦都市宣言20周年
 を記念する平和の塔
 母親の愛情を示し、平和の
 願いを託す嵐の中の母子像
 犠牲者に捧げる恵みの水を
 表現する噴水、祈りの泉
 原爆の実態を後世に伝え、
 世界恒久平和の実現を目
 指す広島平和記念資料館
 平和記念資料館の展示
 被爆した女学生の制服
 平和記念資料館の展示
 勤労動員中学生のズボン 
 平和記念資料館の展示
 焼けたヘルメットと三輪車 
 平和記念資料館の展示
 黒こげのもんぺ 
 原爆投下時13歳だった少
 年が
57年後に描いた絵 
 毎年日の平和記念
 式典で、広島市長が世界
 に向けて発表する平和宣言 
 毎年平和記念式典が開か
 れる場、原爆死没者慰霊碑
 原爆死没者たちへの誓いの
 言葉が刻まれた石室
 核兵器廃絶の実現まで
 灯され続ける平和の灯
 多くの千羽鶴が捧げられ、原
 爆の犠牲になった子どもたち
 の霊を慰める原爆の子の像
 平和を祈り願う人は誰でも
 撞くことができる平和の鐘
 毎朝、原爆が投下された
 
15分にメロディーを響
 かせる平和の時計塔
 原爆投下時目標にされた太
 田川に架かる
字の相生橋
 相生橋から見る原爆ドーム
 (当時は県産業奨励館)
 人類史上初の原爆による惨
 禍を後世に伝える原爆ドーム
 裏から見る 破壊されて
 空洞化した原爆ドーム
広島城、縮景園
 お堀越しに見る広島城二の
 丸、太鼓櫓、多聞櫓、平櫓
 優雅な書院造りの清風館
 清風館前から見る
 庭園への小径
 清風館の裏から眺める濯纓
 池と対岸の積翠巖、古松渓
 池を二分する花崗岩製の橋
 縮景園のシンボル跨虹橋
 濯纓池と、納涼茶会や歌会
 などに使われた悠々亭
 素晴らしい眺望を楽しめる
 四阿、超然居

広島ではもちろん平和記念公園内にある多くの原爆関係の施設を回ることがメインです。年々戦争をじかに知らない人々が増えていくのは仕方ありませんが、原爆(原子爆弾)がなぜこのように問題とされるのかを正面から見据えるためにも、平和記念資料館はできるだけ多くの若い人々が訪れて欲しい所です。

現在ではこのとき落とされた原爆の数千倍の破壊力を持つ水爆(水素爆弾)が地球上にまだ数千発も存在している訳ですから、もしテロリストグループが
発でも手にしたら大変なことになります。それでも水爆を後生大事に抱えていたがるのが、戦勝国を筆頭とする愚かな人類という生き物なのです。

今回平和記念公園を訪れて気になったのは、やはり風化が進んでいるのではないかということでした。この貴重な施設の本来の意味が徐々に忘れ去られ単なる観光地の一つになってしまうのは、時の流れのためとはいえ寂しい感じがします。原爆死没者慰霊碑の前であるツアーグループが(添乗員も含めて)笑いさざめく姿には、とても悲しくなりました。また、人類の負の遺産の象徴でもある原爆ドームが周囲に建設された高層ビル群の中に埋没しかけているのも、それが存在することの意味に照らしてみてかなりの違和感がありました。

最後に訪れた縮景園は平和記念公園から広島駅へのルート上にあり、小さいながら前回訪れたときの印象も良かったのでまた立ち寄ってみました。

そのとき既に15歳になっていた私は、広島に原爆が投下された翌日の新聞に載った「広島に新型爆弾・・・」の見出しをかすかながら覚えています。原爆という史上最も残虐な爆弾を、戦時国際法に違反することを承知で平然と非戦闘員(一般人)の頭上に落としながら、今なおその正当性を主張しているアメリカ人の無知と傲慢さに対して、心の底から怒りを感じずにはいられません。

戦争末期に全国の都市に対して行われた絨毯(じゅうたん)爆撃も、軍人と一般人を区別することなく殺戮する点では戦時国際法に明らかに違反する残虐な行為です。しかし、普通の爆弾とは全く次元の違う兵器である原爆による攻撃は、瞬時に大人も子どもも全てを数千度の溶鉱炉に放り込むのと変わりない状況を作り出す点で、残虐さの程度が違います。加えて、被爆後の数十年間も多くの人々が放射能による後遺症に苦しみ、遺伝子段階では何が起こるか分からないという恐怖さえ残してしまう史上最も非人道的な兵器なのです。

アメリカが原爆を同じ白人であるドイツではなく黄色人種の住む日本に落としたこと、広島にはウラン型、長崎にはプルトニウム型と
種類の原爆を用いたこと、事前の爆撃を控えて広島と長崎をほぼ無傷のままにしておいたこと、日本占領後すぐ調査団が広島入りして詳細な爆撃の効果判定をしたこと、これらの事実は何を示しているか明らかです。

そこから容易に読み取れるのは、先ず人種差別意識、それに基づいた原爆の破壊力確認の対象としての日本人のモルモット扱い、そして最も大きな目的は「戦後の世界で覇権を握るための(当時の)ソ連に対する威嚇」だったことは疑いを挟む余地すらありません。このような理由で稀にみる大虐殺をやってのけながら、いまだに「原爆投下は戦争の早期終結のため不可欠だった」とうそぶき、自らの「人道に対する罪」に目を向けようとしないのが、日頃人権尊重を声高に叫んでいる彼の国の人々なのです。このような独善的な姿勢が戦後もずっと様々な圧力の形で続いていることは、心ある人々なら簡単に見抜けることだと思います。

アメリカナイズがすっかり行き渡った今となっては言いにくいことですが、いつの世も「歴史は勝者によって作られる」だけでなく、戦後はアメリカにすり寄る人々の歴史観だけが正しいとされ、真相は闇に葬られています。あの戦争でさえ、全ての罪が日本にあるという考えは決して合理的ではないと思います。勝者が
100%正しく敗者は100%悪いなど、私のような理系人間でなくとも論理的に考えればあり得ないことです。このようなことを書くと私が右翼ではないかと勘違いする人もいるかも知れませんが、それは全く的外れです。君が代は絶対歌わず年号も大嫌いで極力使わない私は、昨今卑劣な手法で憲法を骨抜きにし、この国にテロを呼び込もうとしている自民党が唱えるような右翼的な思想には強烈な反発しか感じていません。
 
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