私の人生を支えてきた山と音楽


私の人生もいよいよ終盤にさしかかっているのはまぎれもない事実ですが、この期に及んでもなおかつ前向きの姿勢を保っていられるのは思い出の中にその源があるからです。世間ではひたすら前だけ見て突き進むのが立派な生き方だと思われがちですが、決してそうではないと思います。若いときは失敗を怖れない猪突猛進が必要な時期もありますが、人生経験が増した段階では過去の経験の蓄積から学ぶことも大切になります。歴史を無視してならないのは國でも個人でも変わらないのです。

戦前から戦中、更に戦後にわたる国家体制や社会状況の激変の中で生きた経験は自己紹介にも少しだけ書いた通り異常極まるものであり、潔癖で神経の細かい私にとってはこの上なく残酷なものだったことは間違いありません。そうした私に大きな勇気と喜びを与えてくれた山と音楽は何ものにも代え難い伴侶と言うべき存在であり、ここに特記することとしました。、



 山、この畏敬すべき大自然の創造物!


私は、決して大きなリュックを背に何日も山にこもったり、アルプスの深奥部を徘徊したりするような本物の山男ではなく、本格的な山行の回数は微々たるものでしたが、山を愛する気持ちは今でもプロやセミプロの人々にも負けないつもりです。私にとって山はいわば心のふるさとであり、かけがえのない宝なのです。高齢になった昨今は実際に登ることができない場合も多くなりましたが、ただ眺めるだけでも、写真やDVDで間接的に触れるだけでも、それだけで胸が熱くなるという文字通り”恋人”のような存在です。幸い今でも心臓も強く健脚なので適当な山を選んでは出掛けています。ただし、決して急がずゆっくりとマイペースで登りますし、下山のときは登りよりずっと慎重に十分足場を見極めながら下るようにします。捻挫などのような事故を防ぐだけでなくその方が自然の繊細な部分にまで接することができるからです。もちろん状況に応じて引き返す勇気も持ち合わせています。

一旦山に入るとさすがの私のような偏屈者もたちまち素直になり敬虔な気持ちになります。山の霊気がそうさせるのでしょうが、昔からの山岳信仰の源もこのあたりにあるような気がします。残念なことは、
登山ブームが山の怖さやマナーを知らぬ人々までも山に引き寄せ、山歩きの基本を忘れて他人を危険にさらしたり、貴重な高山植物を痛めつけたり、時ならぬ姦しい騒音で人々の心をかき乱したりなど、自然愛好者にはあるまじき残念な行動が目立ってきました。大衆化の代償として仕方ないのかも知れませんが、静寂の中で山と対面することを望んで訪れる人々には残酷な仕打ち以外の何ものでもありません。

80歳を過ぎてからはやはり体力の衰えもあり、低山を除けば麓から登るのはきつ過ぎるようになりました。最近は専ら「ニセ登山」を楽しんでいます。つまり、途中まではロープウェイなどの公共交通機関を利用し、そこから先を自分の脚で登るのです。私の場合は山の雰囲気を味わうのが主目的なのでそれで十分なのです。

長年の間深い悩みや苦しみに耐えながら生きてきた私にとって、
山や高原を歩くのは単なる趣味の域を超えるものなのです。日頃の生活の中で積もり積もったストレスをたとえ数時間〜数日の間でも忘れさせてくれるのが山歩きであり、そうした意味で山は私にとっては文字通りの救世主と言っても過言ではないのです。

ごく僅かな山行ですが、特に印象の深かった山行の中からいくつかを抜き出して書いてみます。

 想い出の山行  

登山を始めたのは
30歳前後で、最初に登った山らしい山は三ツ峠山でした。職場の仲間との集団登山でしたが、初めて接する岩場や早朝の富士の姿を目にすることで、登山の楽しさにはまってしまったようです。若さにはつきものの無鉄砲さもあり、この後いきなり単独でアルペン的風貌の南八ヶ岳連峰の縦走に挑戦することを考え始めました。これが私にとって初めての高山への挑戦だったのです。

南八ヶ岳連峰縦走 (日時は不明だが、多分1965の8)

ルートは、甲斐大泉〜三ッ頭山〜権現岳〜キレット小屋(泊)〜赤岳〜横岳〜硫黄岳〜本沢温泉
    〜稲子湯〜松原湖


最も一般的な編笠山からの登山道は相当の混雑が予想されるためこのルートを選んだのですが、一見して初心者には困難なルートです。でも、「盲、蛇に怖じず」のことわざ通り、権現岳まで
1500mの標高差を
時間ほどかけて登り切りました。途中出会った登山者は下っていく熊本の人だけでしたから、よく無事だったと思います。準備だけは一応整え、国土地理院の地図から自作した高低図でペースを変えるなど工夫はしていました。権現岳と赤岳の間の鞍部にあるキレット小屋に泊まった翌朝ガレ場を越えて快晴の主峰赤岳の2899mの頂上に立ち、そこから遙かな北アルプスを望んだときの言葉では表現できない深い感動が、私を山のとりこにしたことは確かです。ついでですが、当時の山小屋はホテル並みの現在の施設とは雲泥の差で、やっと雨風を凌ぐことができるだけのものでした。赤岳頂上での感動の余韻にひたりながら足元の岩の隙間から1000m下がのぞける高所恐怖症には禁物の横岳を経て、爆裂火口の広がる硫黄岳で小休止のあと本沢温泉経由でひたすら下山した訳ですが、夕闇の迫る暗い森の中をたった独りで歩く間ずっと耳に聞こえるのは落ち葉を踏む自分の足音だけでした。やたらにクマが出没する今ではもうこんなことは危険でできないでしょう。このように八ヶ岳は私の山歩きの原点で眺めるたびにひどく懐かしく思われるのです。

以後は当然のように
北アルプスへと気持ちがはやり、ちょうど当時在籍した職場で良い仲間を得たこともあって仕事の合間を縫っては山に出掛けました。もちろん当時は夜行列車で、
山好きにはおなじみだった新宿発23:55の夜行列車(通称ニイサンゴーゴー)もしばしば利用したものです。春の連休には足慣らしに南アルプスの前衛である夜叉神峠に登って雪を戴いた白峰三山を眺めるのが恒例となり、夏は北アルプスを目指すようになりました。

谷川連峰縦走 (1965.8.16〜8.17)

ルートは、水上(泊)〜土合〜西黒尾根〜トマの耳〜オキの耳〜一ノ倉岳〜茂倉岳〜茂倉新道〜土樽

谷川岳は比較的近いにもかかわらずアルペン的な気分が味わえるため度々訪れましたが、これは初めて縦走したときの記録です。頂上への代表的なルートである西黒尾根ではかなりのエネルギーを費やしますが、そのあと二つのピークであるトマの耳、オキの耳経由で岩峰が続く一の倉岳を通過し茂倉岳に着くと、それまでとは一変する広い草原にホッとします。このルートはこのように変化に富んでいる楽しさがあるのですが、残念なことに上越新幹線が開通してからは在来線がひどく不便になり土樽に停車する列車が2,3時間に1本に減ったため、もうこのような縦走は不可能になってしまいました。。まだ日曜日しか休みでなかった当時でも、土曜の夜行列車で土合に
3時頃着きその後縦走して日曜の夜遅くに帰宅しても、翌日からの6日間の勤務が何でもありませんでした。むしろ普段より調子が良かったくらいです。まだ30
後半の若さでしたから当然と言えば当然かも知れません。

北アルプス表銀座縦走 (1966.8.1〜8.5)

ルートは、有明〜中房温泉〜合戦尾根〜燕山荘(泊)〜燕岳〜蛙(ゲーロ)岩〜(喜作新道)
    〜大天井(オテンショウ)岳〜西岳〜水俣乗越〜東鎌尾根〜槍ヶ岳山荘(泊)〜槍ヶ岳頂上
    〜槍沢〜横尾〜徳沢〜明神(泊)〜上高地〜大正池〜上高地〜新島々〜松本


北アルプスへの初挑戦はやはりアルプス銀座
でした。想像を遙かに超えるきびしい合戦尾根の時間にわたる苦しい登りに耐えて燕山荘近くの尾根に出たときは、比較的天候に恵まれてもいたため槍ヶ岳を始めとする北アルプス独特の景観に衝撃的な感動を覚え、大自然に対する畏敬の念が一層深く私の心に刻み付けられました。燕山荘で一夜を明かしたのちの稜線歩きは、天上沢から吹き上げる涼風に身を任せながら、ずっと姿を見せてくれる槍ヶ岳とそれに続く鋭い北鎌尾根に感嘆したり、大天井岳の高山植物群落に目を見張るなど楽しく時間が過ぎたのです。しかし、西岳からの鉄ばしごによる急降下に続き岩ゴロゴロの東鎌尾根ではそのきびしさに足取りも重くなり、薄暗くなりかける中を槍ヶ岳山荘に着いたときはかなりの疲労を感じていました。それにもかかわらず、翌朝早くくさりや梯子で槍ヶ岳の頂上に登ったとき、雲海を見下ろしながらの
360度の展望は本当に素晴らしいものでした。遠く見える八ヶ岳のシルエットに特別な懐かしさを感じたのはもちろんです。山から下るのはいつも嬉しいものではありませんが、夏の槍沢から明神までの緩やかだが長い下りは見晴らしのほとんどない梓川沿いの単調な道で、槍沢の突端の雪融け水の冷たさが唯一の救いでした。決していわゆる”山男”ではない私なので10時間近くかかったような気がします。こうして初めての北アルプス登山が終わりました。

白馬連峰縦走 (1967.8.1〜8.5)

ルートは、信濃四ッ谷(現白馬)〜八方(泊)〜八方尾根〜八方池〜唐松岳頂上山荘(泊)
    〜不帰(カエラズ)の嶮〜天狗ノ頭〜白馬鑓ヶ岳〜杓子岳〜白馬山荘(泊)〜白馬本峰
    〜三国境〜小蓮華山〜白馬大池〜乗鞍岳〜栂池〜信濃森上


アルプス銀座の次に狙ったのがこの白馬(シロウマ)連峰ですが、有名な大雪渓ルートを取らなかったのは、このルートに並ぶ峰々の特徴が際だっている上、稜線歩きをしながら存分に剣岳を眺められるからです。八方尾根も山上湖の八方池を過ぎると急傾斜になりますが、アルプス銀座の合戦尾根と比較すればずっと楽です。すし詰め状態の唐松岳頂上小屋を出て間もなくの不帰の嶮はカニの横這いや岩壁の急降下がある北アルプスでも指折りの難所ですが、無我夢中だったせいか気が付いたときは無事に通過していました。数年前に岩茸山から眺めたときは「よくあんな所を何事もなく通過できたものだ」と思ったものです。不帰の嶮の通過後は快晴の中を高山植物や雷鳥との出会いを楽しみながらのんびりと歩き、巨大な白馬山荘に入るまで延々10時間かかりました。途中で遠くに雷雲が見えるようになり急ぎ足になったものの、長距離ルートに挑戦したご褒美にずっと並行する立山連峰の姿を眺めることができ、特に岩の殿堂剣岳が少しずつ姿を変えながら見事なピラミッド型になるまで顔を見せてくれたのは、本当に嬉しいことでした。また、早朝の白馬本峰から見た日本海に湧き立つ沢山の雲の柱や信州側に沈んだじゅうたんを思わせる雲海も印象的でした。三国境の手前の小さな雪原で遊び白馬大池のほとりで食事を済ませてから乗鞍岳を経て下山に取りかかったのですが、大きな岩が積み重なった上伸びきった夏草で風も通らず予想外に辛かったことを覚えています。下山後の神の田圃で振り返ったとき目に映った雷雲のまとわりついた白馬連峰の姿がひどく遠いものに感じられました。当時はまだ栂池自然園はなく、乗鞍岳から信濃森上駅まで二本の脚だけが頼りだったのです。


穂高連峰縦走 (1968.7.30〜8.3)

ルートは、上高地(泊)〜明神〜横尾〜本谷橋〜涸沢ヒュッテ(泊)〜北穂高岳南稜〜北穂高岳
    〜涸沢岳〜穂高岳山荘(泊)〜奥穂高岳〜吊り尾根〜前穂高岳〜重太郎新道
    〜岳沢ヒュッテ〜上高地


秋の紅葉が素晴らしい涸沢から見たパノラマ通りの穂高連峰縦走です。上高地から横尾までは梓川沿いの森の中を辿る緩やかな道ですが、横尾を過ぎると徐々に傾斜が増し屏風岩を迂回してようやく涸沢ヒュッテに到着しました。翌日は色とりどりのテントが並ぶ通称涸沢団地を横目に見ながら南稜に取り付き、かなりの消耗を強いられたものの何とか北穂高岳に着き更に宿泊予定の穂高岳山荘へと向かったのですが、涸沢岳付近で霧雨に見舞われ滝谷側に傾斜した滑り易い縦走路に肝を冷やしながらやっとの思いで通過したのです。早朝の奥穂高岳への登りはさほどきつさも感じないまま頂上に辿り着き、北アルプス最高所からの眺めを楽しむことができました。
21年後に訪れたノルウェーでのスタルハイムからの眺めがここからの上高地の眺めによく似ていて、錯覚を起こしそうになったこともありました。奥穂高岳から前穂高岳までの吊り尾根は特に危険もなく順調に通過できたのですが、その後の下りがラクダのコブの連続でひどく苦労させられたことは今でも鮮明に覚えています。涸沢カールから憧れの穂高の峰々を初めて仰ぎ見たときの感激、奥穂高の頂上から周囲の山々や上高地を見下ろしたときの深い満足感など、
50年近く経った今なお甦ってきます。

立山連峰縦走 
(1976.8.23〜8.26)、(1988.8)

ルートは、扇沢〜黒部ダム〜黒部平〜雷殿〜東一の越〜一の越山荘(泊)〜雄山〜大汝山
    〜富士の折立〜真砂岳〜剣御前小屋〜雷鳥沢〜みどりが池〜みくりが池〜室堂


現在は閉鎖されてしまったようですが、立山トンネルの途中の雷殿でトロリーバスを降り、そこから一の越山荘まで草つきの斜面を
2時間ほど登ると、もう立山の稜線です。一の越山荘に泊後の早朝の尾根歩きはとても爽快で日頃の苦労などどこかに吹き飛んでしまいそうでした。雄山の頂上に祠がありそこを通らないと先に進めないのは神仏にかなり抵抗のある私にはちょっと嫌な気分でしたが、そこからは雲はあるものの快適な縦走路で、山上のコーヒータイムなども楽しいものでした。最後に室堂平に下りバスとケーブル、電車を乗り継いで富山に出たあと銭湯で汗を流して帰りました。このルートは、12年後に職場の若い同僚と再度訪れましたが、そのときはもう
mm撮影機からフィルムカメラに切り替えていたため、普通の写真でホームページにも掲載しています。


 『8mmフィルムからの写真作成に成功!

上に書いたように、これらの山行では専ら当時の最新機器であった8mm撮影機を持参したのです。かなりかさばる上に結構重く、フィルム交換もブラックバッグの中で手探りで行う代物でした。筋骨隆々とは無縁の非力であるためとても別にカメラまで持つ余裕はありません。これが今になってみると大失敗で写真が全くないのです。20本近くある山行の記録フィルムの中で必要な部分はほんの一部であるのに、全てをカメラ店で写真にしてもらうと数十万円もかかると知り、自分で何とかしたいと常々考えてきました。色々と考え工夫した結果、8mm映写機にかけたフィルムを適当に見当を付けて数十回止めては切り取り、フィルムスキャナーを使ってそれらの画像を取り込み更にPhotoshop Elementsで加工することで写真にしてみようと工夫した結果何とか見られるものが出来上がりました。色彩の劣化はもちろん、小指の爪程度の細かいフィルムをかなりの倍率で拡大するため、不鮮明な画像になるのはやむを得ません。それでも、写真が全くないのと比べれば雲泥の差です。2005月以降はこの方法による画像を展示しています。



  音楽、この素晴らしい人類の創造物!


私が特に強い関心を持っているのは主としてクラシック音楽です。ヴァイオリンやピアノのソロ、それに交響曲も好きでしたが、最近は協奏曲や小編成の室内楽に興味が移っています。特にバッハとショパンの音楽には強く惹かれています。クラシック以外でも色々ありますが、心の安らぎを感じさせてくれるようなポピュラーやフォークなど、それにラテン、シャンソンなども大好きです。ピアノも全くの独学ですが、初見には結構強いので何とか楽しむことができます。

最近まではアップライトピアノを弾いていたのですが、住宅地のため周辺への気兼ねがあり中々長時間楽しむことはできませんでした。それに、弾くことのできる時間が細切れ状態ではどうしても一つ一つの曲に集中する訳にはいかず、色々なジャンルの曲を片っ端から弾きまくるようになりがちです。当然、自分で納得のできるような仕上がりにはなりません。

そこで、最近古くなったピアノを処分して電子ピアノに買い替えました。初期のものとは違いかなり機能が充実しているため、ほぼピアノと同じ感触で弾くことができます。色々な音色での表現も可能なので、例えばバッハの曲をハープシコードで表現できるなどの楽しみもあります。ワンタッチでの録音もでき、何よりも、ヘッドホーンを使えば「いつでも、弾きたいときに弾ける」点が最大の利点です。これで、一曲ずつを十分な時間をかけて仕上げていくことができるようになりました。

 『音楽との関わり』

私の音楽に対する興味傾向は決して”通”のようなものではなく、ごくありふれた曲に限られています。以下、作曲家ごとに、好きな曲をいくつか挙げてみます。

J.S. バッハ ……ヴァイオリン協奏曲番・番、ブランデンブルク協奏曲、管弦楽組曲番 ・番、
           トッカータとフーガ
ヴィヴァルディ……ヴァイオリン協奏曲
1番〜番、和声と創意への試み(含む「四季」)、調和の幻想
ベートーヴェン交響曲番「英雄」、交響曲番「運命」、交響曲番「田園」ピアノ協奏曲番「皇帝」、
           ピアノ協奏曲
番〜番、ロマンス1番・2 ピアノソナタ番「悲愴」
           ヴァイオリン協奏曲ニ長調
ヴァイオリンソナタ
モーツァルト…… 交響曲
40番・41番(ジュピター)、ヴァイオリン協奏曲番〜番、
           ピアノ協奏曲
26番「戴冠式」、クラリネット協奏曲イ長調、
           セレナード
13番「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」、ピアノソナタいくつか
.ショパン………ピアノ協奏曲・2番、どのピアノ曲も好きだが強いて順序を付ければ先ず ノクターン、
           次にバラード、プレリュード、あとはワルツ、マズルカ、ポロネーズとなります。ショパンの曲は
           バッハとは違った意味で私の感性に合っています。
シューベルト…… 交響曲
番「未完成」、ピアノ五重奏曲「ます」、「楽興の時」などのピアノ曲、
           歌曲集の「白鳥の歌」、「美しき水車小屋の娘」、「冬の旅」
メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲ホ短調、ピアノ協奏曲

チャイコフスキー  ピアノ協奏曲
番、バレエ音楽「白鳥の湖」「くるみ割り人形」など
ヨハン・シュトラウス…「美しく青きドナウ」「芸術家の生涯」などのワルツ、「アンネン・ポルカ」などのポルカ、
          「こうもり」などの序曲

その他、スメタナの交響詩「我が祖国」、グリークのペールギュント組曲、ビゼーの組曲「カルメン」と 「アルルの女」、サン・サーンスやパガニーニのヴァイオリン協奏曲、 ドボルザークの「スラヴ舞曲集」などもお気に入りの曲です。

また、小曲の中で気に入っているものを挙げてみると、次のようになります。

クライスラーの「美しきロスマリン」「愛の喜び」「愛の悲しみ」「ロンディーノ」などのヴァイオリン曲、サン・サーンスのヴァイオリン曲「序奏とロンド・カプリチオーソ」サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」のヴァイオリンによる演奏 「カヴァレリア・ルスティカーナ」「聖母の宝石」「タイスの瞑想曲」「マドンナの宝石」「女学生」 「スケーター・ワルツ」「ラ・カンパネラ」「ペルシアの市場にて」「牧神の午後への前奏曲」など

このように、クラシックと言っても興味の対象がかなり偏っているのが私です。例を挙げれば、有名な作曲家でありながら、ブラームスやマーラー、ムゾルグスキー、ショスタコーヴィッチ、パルトーク、ヘンデル、ハイドンなどはこの中に出てきません。どういう訳か感覚的に合わないのです。

カラヤンのベルリン・フィル、バーンスタインやベームのウィーン・フィル、マゼールのロンドン交響楽団、セルのクリーブランド管弦楽団、フィドラーのボストン・ポップス・オーケストラ、ストコフスキーのチェコ・フィル、リヒターのミュンヘン・バッハ管弦楽団などがお気に入りで、音楽会に出掛けるのが難しくなり代わりに
CDを大量に買い込んだときも演奏者と指揮者、録音日などを見て選びました。最近も眠る前に時間ほどCDで音楽を聴くのが恒例になっています。

また、イ・ムジチ合奏団による「四季」は毎年欠かさず聴いていましたし、年末のウィーン・フィルによるニュー・イヤー・コンサートの衛星中継も楽しみの一つになっています。

ギーゼキングやホロヴィッツのピアノ、ハイフェッツやミッシャ・エルマンのヴァイオリンも遠い昔になりました。
           

クラシック以外で興味を惹かれる曲
を挙げてみます。うまく分類するのが難しいものは曲名を並べるだけにしました。若い人々にはなじみがないものが多いと思います。
           

各国の民謡……バイカル湖のほとり、二つのギター、ともしび、帰れソレントへ、カタリ・カタリ、マリア・マリ、
           シェリト・リンドなど

シャンソン……… 枯葉、パダム・パダム、セ・シ・ボン、フル・フル、私の心はヴァイオリン、ラ・メール、
           パリの空の下など
タンゴ……… 碧空、真珠採りのタンゴ、ヴィオレッタに捧げし歌、ジェラシー、カミニート、ラ・クンパルシータ、
           淡き光に、エル・チョクロ、エル・クンバンチェロなど
その他……… 雪が降る、サン・トワ・マミー、涙のトッカータ、シバの女王、ある愛の詩、追憶、
          エーゲ海の真珠、オリーヴの首飾り、白い恋人たち、イェスタディ、マイウェイ、ブラジル、
          アマポーラ、ある恋の物語、マラゲーニャ、 シェルブールの雨傘、イン・ザ・ムード、
          秋のささやき、ライムライト、エストレリータ、スターダスト、二人の天使、ひまわり、風のささやき、
          黒いオルフェ、サウンド・オブ・ミュージック、禁じられた遊び、鉄道員など
60年代フォーク……遠くへ行きたい、見上げてごらん夜の星を、学生時代、四季の歌、若者たち、風、
          竹田の子守歌、ふれあい、帰らざる日々、白いギター

ポール・モーリアやレイ・フランシスの手になる曲が私にはピッタリとくるようです。シャンソンはイヴ・モンタン、タンゴはアルフレッド・ハウゼ、合唱はウィーン少年合唱団や木の十字架合唱団です。また以前のように音楽会にも出掛けたいのですが、朝型で深夜に弱いため帰りが深夜近くなることを考えると中々難しいです。

中学生時代は重音のハーモニカやアコーディオンが得意でした。やっとピアノを弾き始めたのは
20歳くらいからで、最初は耳で覚えたメロディを適当に鍵盤上で再生して楽しんでいました。しかし次第にそれでは物足りなくなり、適当な和音を伴奏に使うようになったのです。更に楽典を参考にしながらバイエルから練習を始め、ソナチネ、ソナタと自己流ながら進めました。と言っても、現在のようにピアノ教室などがある訳ではなく、音楽が好きだからこそ続けられたことは確かです。楽譜を次々に買い込んで弾いているうちに定番のピアノ曲だけでは何となく物足りなくなり、ヴァイオリン曲や交響曲を編曲したピアノ用の楽譜を探したり、ビートルズ、映画音楽、フォークなどの楽譜 (適度に手応えのある編曲のもの)を探すなどしました。ところが市販している楽譜はほとんどが子どもの練習用だったため、大人用のものを見つけるのはかなり大変でした。

こうして、私のピアノ技術は一応は身につきましたが、もちろん正式に習った人とは比較になりません。ポピュラー曲はともかく、クラシックの難しい曲は音符が飛んだり強弱が狂ったりは”朝飯前”でとても人に聴かせられる段階ではありません。しかし、たとえ本来の楽譜通りに弾けなくても、弾いている間はそれに没頭できますし、それで十分だと思っています。親の見栄の犠牲になった訳でもなく
自らの意志で、また自らの力でやり遂げたのですから。生まれたときから豊かさに囲まれて暮らしている人々から見ればバカなことをしてきたように思うかも知れませんが、どん底の時代から立ち上がってきた人間の一人である私にとって、好きな音楽を自分なりに表現できることは貴重な財産なのです。素晴らしいテクニックを持ちながら心の貧しいプロのピアニストよりも、たどたどしい演奏でも音楽が好きでたまらない人間の方が遙かに存在価値から言えば上だと勝手に思うことにしています。