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生きていく上でのこだわり    私の人生を支えた山と音楽  
旅についてのこだわり   旅のプラン作りの手順と実例
私が生きてきた時代(戦前・戦中・戦後)  
人生の終末期を迎えて 私の実践 

 個人情報満載の自己紹介 

一般に自己紹介はごく簡単に書かれることが多いのですが、ここではかなり詳しく私という人間の内面までさらけ出してあります。変わり者を自認する私ですが、その考え方や行動の仕方の中には参考になる部分も幾分かはあるのではないかと思い、このような形にしてみました。僅かでも若い皆さんのお役に立てば幸いです。


    年  齢     192912月生まれ、あとヶ月で90歳になる。
  現  住  所   科学者をはじめとする多くの先見性ある人々のデータに基づく度重なる警告にも耳をかさず、浅ましい欲望
  の赴くまま目先の利益の追求にのみ走って環境破壊を繰り返す、刹那の享楽に浮かれるだけの愚かで傲
  慢な生き物ホモサピエンスの住みか太陽系第三惑星上の自然災害大国の片隅の掘っ立て小屋。 
  狂わされた人生
  に精一杯の抵抗
◆ 幼かった頃はまれに見るほどの虚弱体質で度々死に損なったそうですが、疎開先での厳しい日常生活、徒
   歩や自転車による長距離通学、旧制中学校での徹底的な体力作りなどで、病気とはほとんど無縁な身体
   になりました。しかし基本的には虚弱体質であるので、現在に至るまで健康の維持には細心の注意を払って
   きました。とりわけ、
現代最悪の麻薬であるタバコに毒されずアルコールの世界にも過度にのめり込ま
  ずにきたことが、現在の健康に大きく貢献している
のは疑う余地がありません。
◆ 誰にも負けない向学心を持ちながら突然父を失って断腸の思いで進学を断念し、僅か
18歳の身で母と弟
   妹を養う”亀の子状態”となる羽目に陥った結果、性格的に最も合わない職に就いて
42年を過ごし、90
   に定年退職しました。命を奪われなかったとはいえ、
一度しかない人生を完全に狂わせてしまった国家
  体制への怒りは死ぬまで収まりそうもなく、この思いをバネに生きてきた
と言ってもよいくらいです。生きる
  道を自ら選べないほど口惜しいことはありません

◆ 退職の
年後大学の理科系学部に入学し96月に無事卒業しました。42年間心に秘めてきた学問
  への思いが多少なりとも遂げられた
のは何より嬉しいことでした。以後も様々な理系分野に手をのばしなが
   ら現在に至っています。
◆ 英検は
級に合格しています。この程度の英語力でもあらゆる場面で世界が大きく広がったことを思うと
   英語は敵性語とされていた中学時代からずっと英語に力を入れてきて良かったとしみじみ感じています。
◆ 退職後の数年間はかなり頻繁に音楽会などの文化的な催しに出掛けましたが、母の介護でそれが不可能
   になってからは、
CDにその代役を委ねました。また、この頃から海外旅行もグループツアー拒否症が一段と
   募ってきたように思います。
2001年のスイスを最後に旅行先を国内に切り替えるつもりだったのですが、結局
   我慢し切れず
77歳にして中欧(ハンガリー、オーストリア、チェコ)の鉄道によるひとり旅という”暴挙”に出て
   しまいました。異国の地の一人旅は私には何よりも効き目のある栄養剤のようなものなので、かえって体調が
   良かったくらいです。
  本来あるべき姿と
  現実とのギャップ
◆ 少年の頃持っていた将来の夢は、理化学研究所などで理系分野の研究に励むこと、天文台で星の研究
   をすること、あるいはクラシック音楽の世界に飛び込むことなど、
どちらかと言うとカネ稼ぎとは無縁な分
  野で生きること
でしたが、戦争という国家が個人を押しつぶす理不尽な激動の時代にあってその夢もは
   かなく消え失せ、前述のように性格上最も合わない人前に立つ仕事、しかも決して創造的とは思えない大
   組織の中での仕事に就かざるを得なかったため、とうとう最後までそのギャップに悩まされ続けたというのが
   正直な所です。
◆ 合わない仕事でもいい加減にできない○○真面目な性格が運の尽きという訳で、結構心身を擦り減らしまし
  た。
ポストハンティングを唯一の目的とする多数派の人々とは一線を画して、ひたすら自らが納得でき
  ることだけを大切に守り続けた
のがせめてもの抵抗でした。私にとっては、名刺に偉そうな肩書きを並べて
  見かけを飾り虚栄心を満足させるための立身出世の道よりも、
自分の信条に忠実に生きることの方が遙
  かに大切
だったのです。組織の論理で納得できないことを強要されるのを何よりも嫌う私の性格、これこ
  そ功利主義を排撃する学者だった先祖の血をそのまま受け継いだ私の、変人たる所以なのです。       
  健康の維持に
  たゆまぬ努力
  

  細心の注意で
  身の安全確保
  
◆ 退職後は年2回(最近は年回)の精密検診(胃カメラ、超音波、胸部レントゲン 、心電図、血液検査)
   を欠かさず受けてきました。検査データは自分なりに時系列方式にまとめ、医師にだけ任せず自分でも身
  体各部の状況変化を的確に把握するように努めています。しかし最近はさすがに
全身の部品の耐用年
  数が切れかかっている
ようで、ちょっとの無理でもその後遺症が目立つようになりました。
私が健康に気を配るのは決してただ単に長生きをしたいからではなく、生きている間はできるだけ自
  らの力で何でもできるようにしておきたいから
なのです。高齢になりかかってからこのことの大切さに気付
  いても大抵は遅過ぎますから。
◆ 
現代病の一つでもある便利さへの過度の依存は確実に老化を早めます。現代人は便利さに慣
  れ過ぎて非常に骨惜しみをするようになっています
が、昔から言われてきた苦あれば楽あり、楽あ
  れば苦あり
は今でも通用するのです。若い頃に楽をすることばかり考えて暮らしていると、そのつけは
  高齢になったとき必ず払うことになりがち
なのは周りの人々を見れば一目瞭然です。私の場合は性格
  もあって何でも人に頼らず自分でやることを習慣にしてきため、足腰もほとんど衰えずこの年齢でも日常生
  活で必要なことは全て自力でこなすことができます。
◆ 人混みが極度に苦手なこともあって、エレベーターやエスカレーターは余程のことがない限り使いませ
  ん。このことは在職中から習慣化しているため何の抵抗もなく、足が自然に階段に向いてしまいます。

  段歩行は最良の足腰鍛錬
になります。しかも無料で・・・。そのお陰で現在でもどこに行っても階段など
  全く苦になりません。もちろんこうなるには
長年にわたる生活習慣が物を言っている訳で、足腰が弱り
  かけてから慌てても間に合わない
のです。安易に機械に頼りがちな現代の若者の将来の姿が非常に
  心配になります。
日々の僅かな安楽志向の行動の積み重ねが少しずつ老化を早めていくことに是
  非気づいて欲しいものです。
◆ 在職中とはもちろん条件が違いますが、食事は内容、時間ともできるだけ規則的に摂り、摂取量は朝食、
  昼食、夕食を比較すると概ね
3:4:2を目安にしています。常に「腹八分目」を守り、食事内容もバランス
  の取れるよう自分で工夫します。間食は時々しますが夕食後は食べ物は一切口にしません。また、外食
  は極力避け、やむを得ず摂る場合は適量で質の良いものを選びます。
◆ 
年を追って体力が衰えるのは当然の成り行きですが、それを認識した上で最近も無理のない範囲で
  ハイキングや町歩きなどに出掛けています。速く歩くのが立派な訳ではないので、自分のペースで自然との
  触れあいを楽しみながら歩きます。
◆ 
極端に暑さに弱いのが何よりの悩みで、月から月までは地獄の季節です。体感温度は普通の人
  々よりかなり高いでしょう。周りの人は平気でいるのに一人で汗たらたらだったりするのは珍しくありません。四
  季を通して扇子は必需品です。夏はもちろん冬でも普通の人々には適温であろう暖房が、私にとっては
  我慢できない程きつくてすぐに汗をかいてしまいます。地球温暖化の加速で益々暑くなりますが、それまで
  には昇天しているのでその点は幸いです。もっとも、最近は体温調節の機能が低下したのか寒さにも以前
  ほど強くはなくなりました。
◆ 在職中も同じでしたが、
どんなに急ぐ場合でも走らない主義です。走れば様々な危険を招き易く、とき
  には
それが原因の大怪我で人生設計が大幅に狂ってしまう場合もあるのですから。私の場合、在
  職中は乗換駅で悠々とコーヒーを楽しめるよう
30分の余裕を持って出掛けたものです。つまり、慌てる
  必要がないように早起きしたり早めに出たりする
のが私のやり方なのです。また、階段などで先を争う趣
  味は全くなく、ある程度空くまでは一歩下がって待つのが常です。突き飛ばされる危険を避けるためにも必
  要なことです。これも時間に余裕を持たせているからこそできるのです。最近はスマホ中毒患者の激増で
  まともに歩けない人が多くなっているので、そうした人々の動きにも注意することが必要になってきました。
◆ 何と言っても、
体内時計を狂わせない早寝早起きです。在職中は休日も含めて遅くとも12時までに
  は寝て
時〜時半には起きました。体力の衰えた最近は10時〜10時半就寝、時半〜時に起
  床が定例化してきました。今では当たり前になってしまった昼夜逆転生活は、自然の摂理に反する不健
  康極まるものだと思っています。
企業の論理が幅を利かす金儲け至上主義の巷で踊らされていると
  、何よりも大切な健康を損ない
ます。また、そのような生き方に若い人々を追い込んでいる現在のアメリ
  カ型の弱肉強食の経済システム
強欲資本主義には深い怒りを感じています。
◆ 
車は、人類史上最も便利である反面最も危険度の高い乗り物です。私の場合、運転とは70歳の
  誕生日を迎えた際キッパリ絶縁し、以後は徒歩と自転車、公共交通機関で何でも間に合わせています。
  多少不便でも、体力の維持や老化防止など大きなメリットがあるのです。反射能力の衰えた高齢者が危
  険を冒して運転せざるを得ないようにしてしまった
車中心の交通政策が最大の問題であることは明らか
  です。高齢になってからの運転を得意がる人もいますが、私には全く理解できません。痛い目に遭って初
  めて後悔してみても、もはや遅過ぎるのです。   
  絶えざる好奇心
  学問への情熱
  
  メディアへの消え
  ることなき不信
  
  ある種の頑固さ
  絶滅寸前の人種  
◆ 一部に立派な活動をしている人もいるとはいえ一般に品位を欠き虚飾に満ちた芸能関係や、人を地
  獄に誘い込みがちなギャンブルなどには全く興味がありません
が、それらを除けば物事に対する好
  奇心が極めて強く
一旦関わると中途半端にせずのめり込み、とことんまで頑張ってしまう傾向があります。
  何事もある程度メドがつかないと止められないためかなり疲労の蓄積する性格です。終日何もせずボーっ
  と過ごすなど、国家によって貴重な青春を台無しにされた者にとってはとても勿体なくてできません。
私はい
  わば常時熱中症患者
です。
◆ 特に、多少なりとも
学問的な要素を持つ事柄に対しては非常な興味を持ち、何でも100%を目指
  して努力
します。大学も英検も、そしてパソコンもそうでした。何事でも100%を目指してやっと80%
  程度を達成できるのが人間
なので、最初から目標を低くする気にはなれないのです。原動力は 「学問
  の世界で生きること」を切望しながら果たせなかった悔しさです。何故って
未知の事柄に挑戦し自力で
  それを乗り越えるほど刺激的で喜びを感じさせてくれるものはない
ですから。今どきはやらない考え方
  ですが「三つ子の魂百までも」です。
◆ 
付和雷同ができないタイプで意味なく群れるのを極度に嫌います。ただし、決して人間嫌いという訳
  ではありません。ただ
ミーハー的な感覚でワイワイガヤガヤ集まるのが性に合わないだけです。誠実で
  物事を真面目に考えることのできる仲間は考え方や意見如何にかかわらず世代や性別などは無関係に
  大切にします。
下劣な言動は耳にするだけでも不愉快で大嫌いですが、気の利いたユーモアは好き
  でもあり自分でも結構得意なのです。
◆ 
物事は何でも自力で計画し実行するのが最善と思っていますし、また実際にそのようにしています。最
  初から全てを他人任せにするのを好まず、基本的に自力本願を通しています。
他人の敷いたレールにた
  だ乗っかっているだけでは自分の存在する意味がない
と思うのです。旅はもちろん、日常の小さなことに
  至るまで事情の許す限り自分の流儀で行います。
◆ 自分で言うのも変ですが、真面目(前に何か付くかも)で綿密、独立心が強く、学問に深い関心を持ち、他
  人の無責任な言動、特に
視聴率至上主義のTVには極めて批判的で盲従することは絶対なく、長い人
  生経験に基づく様々な教訓と、
机上の理論や風評でない事実による判断を大切にします。
◆ 
納得できないことには安易に妥協せず、最後まで譲らない強さがあります。最も嫌うのは、伝統の名の
  下に因習めいたしきたりを強要されたり、組織の都合を優先に正論を”青臭い空論”などと称して封
  殺されたりすること
です。最近の風潮として、真面目に物事に取り組む人間よりもユーモアとは無縁の下
  劣なおふざけの得意な人間の方がもてはやされる傾向
がありますが、これこそ人間社会の堕落を表す
  もの
であると思います。それを助長しているのは明らかに民放番組の一部ですが、スポンサーがそれを要求
   しているとしたらもはや論外です。
◆ 
決して豊かではない一庶民に過ぎない私ですが、カネに目の色を変える習性は全く持ち合わせていま
   せん
。それどころか、最近特に激しくなってきた「カネ万能主義」には強い憤りを覚えています。自民党
   政権と経済界のボス連の主導で
人々がカネの亡者に仕立て上げられてきた昨今の風潮は、悲しく嘆
   かわしい
ことだと感じています。30歳過ぎまで極貧の生活をしたのに、なぜカネへの執着があまりなくこのよ
   うな考え方をするのか自分でも不思議ですし、恐らく誰にも理解できないことでしょう。多分、
貧しいことよりも
   カネに目の色を変えることの方が遙かに恥ずかしいこと
なのだという古き良き時代のモラルが、骨の髄ま
   で染みついているのだと思います。
◆ 
公共マナーでは誰にも負けない自信があります。遠い昔、まだ大人たちに権威と子育ての哲学が
   あった
頃、基本的なマナーを完全に刷り込まれた身には、老若男女を問わず平然とルールを破りマナー
   を無視する現状が信じられません。
幼少の頃の躾の意味を理解できない親の激増は極めて嘆かわし
   いこと
です。白紙の状態の幼児期に基本的な行動規範や物事の善悪を教え込むことの重要性が
   忘れ去られたのが、今のような半ば腐敗した社会を生み出した
ことはまぎれもない事実です。もっとも、
   だいぶ前からは(格好だけは立派に見える)大人が平気でルールを破り悪事に走るのが日常茶飯事になっ
   ていて、とても子どもの模範になれそうもありませんが、
「子ども大人」の氾濫する状況では当然かも知れま
   せん。「アリの一穴」のことわざのように、
小さな約束事を無視する日常の積み重ねがやがては防ぎ切れ
   ないモラルの崩壊を引き起こす
のであり、昨今の日本は確実にその道を歩んでいると思うのです。
◆ 
性別・年齢・人種等で人を差別する意識は全く持ち合わせていません人を判断する基準はあくま
  でもその人の人柄(発言の内容や態度など立ち居振る舞い全般)によってであり
、地位や肩書きには
   全く影響されることはありません。地位や肩書きは一種のアクセサリーであり、問題は人物そのものがそのアク
   セサリーのきらびやかさに相応しいかどうかだと思うからです。恐らくそうすることが処世術の極意なのでしょう
   が、アクセサリー欲しさに上司にへつらうなど卑屈な手段を弄した人間にはとかくその影がつきまとい、往々に
   して尊大で粗野な言動に走りがちです。
本当に立派な人間は自分がどんな地位にいようと他人を見
  下すことはせず丁寧で温かい態度で接するものです
。「長」が付くと途端に居丈高になりふんぞり返るの
   は最低の人間なのです。つまり、一言で言えば
実るほど頭を垂れる稲穂こそあるべき姿だと思うのです。
   残念ながら、世のいわゆるお偉方には中々そのような人物はいません。
町内会から政界に至るまで無知
   で傲慢、下品で図々しい人間
が我が物顔に振る舞う
例が少なくありません。中身の貧弱な人間ほど
   権力や肩書きを欲しがることが多く、そのような輩はとかく仲間を立場の上下関係だけで区別しがちで、

   間の価値はレッテルとは無関係である
ことにさえ気付かないのです。このようなタイプには私は最も嫌悪
   感を持ちます。もちろんカネのぶんどり合戦に長けることが人生唯一の目的であるかのような風潮をもたら
   した
拝金主義者は私が最も軽蔑する対象です。
………………………………………………………………………………………
  これらの裏返しとして
一般の人には歓迎されない欠点が数え切れないほどありますが、多くはいわば不
  治の病なので今さら矯正する気は全くありません

◆ 
いわゆるなあなあの”社交性”はスッポリ欠落しています。、決して”八方美人” にはなれないタイプで
  事によっては”四面楚歌”でも気にはしません
。日本人の美点とされてきた「和」にもついていけない部分
   が少なからずあります。この世の全てが合理性だけで割り切れるものでないことは分かりますが、昔からあると
   いうだけの理由で因習の維持に手を貸している場合もないとはいえないと思うのです。
◆ 人間社会のいい加減さに寛容になれず、常に何かに疑問やいら立ちを感じてい ます。特に
真剣になるべき
   ときにも茶化してしまう現代社会の風潮には絶望
を覚えていて「それを助長するのは、視聴率を上げるた
   めには何でもやる一部の民放
TV」という思いこみが激しい人間です。おふざけしか知らない三流の芸能人
   が複雑な社会問題について上っ面だけを見た感想を得意げに喋るなど笑止千万です。街頭でのインタビュ
   ーのお粗末さも相変わらずで、主題についてのしっかりした認識を元に意見を述べる人はほんの一部であり、
  
国際情勢や社会問題に日頃無関心な人々の多さが目立つばかりです。現代日本人の関心は金儲
   けとスポーツ、グルメ、それに芸能(特にお笑い)なのかも知れません。正に
マッカーサーが目指した「日
   本人骨抜き政策」が見事に結実した
と言えます。
◆ 物事をきちんと処理しようと努力せず他人に迷惑や損害をかけて平然としている人を見ると、どうしてもそのま
   ま放っておけない気持ちになりますが、最近のようにすぐナイフを突き出したり暴力に及んだりする野獣のような
   輩が多くなってくると、そうばかりも言っていられません。残念ですが命の危険を冒してまで注意するほどの勇
   気は持ち合わせていないのです。消極的であることは否めませんが、
他人がどうあろうと自分だけは決し
   て人間として恥ずかしい振る舞いはしてこなかった
ことだけは誇ることができます。
◆ ここに全てを書くのは不可能ですが、物の考え方や感じ方が青臭くかなり変わって いて短所だらけです。そ
   ればかりか、
いつまで経っても青臭く、幼稚な正義感から抜けられないことを誇りとさえしているだけに
   尚更手に負えないのが私です。
現在は「独り言」の欄に勝手気ままな意見を載せることができるので、
   それが鬱憤のはけ口
になっています。  
  多過ぎる趣味で
  いつも時間不足
  かなり多趣味であるのにもかかわらず、在職中は時間の関係でほんの少ししか楽しむことができず、イライラさ
  せられるときもありました。退職後は一応そのような悩みは少なくなりましたが、 それでも色々な事情から中々
  思うようにはいきません。

@ 鉄道旅行…全ての乗り物の中で最も安全で確実、車内の空間で自由に移りゆく窓外の風景などを楽し
      める
単なる移動手段ではなく最高の時間を与えてもらえる旅。
A ハイキング…相変わらずの健脚と強い心臓を駆使して高原や渓谷を歩き回るのは、心に栄養を注ぎ込む一
      番の近道。都会の喧噪を大の苦手とする私には命を支えるために不可欠の時間。
B ピアノ演奏…音楽教室などない時代に育った身であるため全て独学。
数年前に電子ピアノに変え、60
      代フォーク、映画音楽、クラシックの名曲
を楽しむ。読譜力はあるが指使いは自己流。趣味としてはそ
      れで十分。
C 
ホームページの運営2004.3.16に開設し絶えず改良を加えて現在に至る。独自の方式による「写真旅
      行記」で大嫌いな
CMは徹底的に排除。
D 写真の撮影…山や高原などの自然風景、鉄道関係、
HPに掲載する旅行関係の写真が中心。古くは
      フィルムカメラ、現在は一般的なデジカメ使用。
E 
パソコンの活用HPによる発信、画像処理(Photoshop Elements)、文書作成(一太郎)、インターネ
      ットによる情報取得、文書と画像の保存、メール送受信、カシミール
3Dによる作図、各種ゲーム
      (テニス、囲碁 他)
F 
山岳愛好…麓からの自力登山は卒業し交通機関を利用する省エネ山行に。山への愛着が極めて深
      く、
DVDや写真集、TVのドキュメンタリーなどでも楽しむ。国内では穗、剣、谷川、海外ではマ
      ウントクックが大好き。
G 
鉄道愛好…鉄道に関する全てに強い関心を持つ。乗るのが大好きで長時間でも飽きることはない。車両
      の研究や撮影は適度。
SLよりも電気機関車に興味がある。鉄道関係のDVD、写真集や地図など
      の出版物を収集。
JTB時刻表は貴重な情報の宝庫で最大限に活用。
H 
偏向読書…外出時に本の携行は習慣化。読書の傾向は偏り、 新田次郎の山岳小説や松本清張など
      の推理・社会小説、各種のドキュメンタリー小説、田辺聖子や瀬戸内寂聴などによる現代語訳され
      た古典物語(特に 源氏物語)、それに社会の恥部を厳しく指弾する社会小説などに偏る。最近の作
      家の著作は一部を除けばあまり合わない。携行の利便さや収納の関係で専ら文庫版。
I 
偏向視聴NHKを主とする良質の自然・紀行・報道番組やドラマなどの視聴。例えば、「地球絶景紀
      行」「さわやか自然百景」「にっぽん百名山」「日本の名峰・絶景探訪」「世界水紀行」「ヨーロッパ
      空中散歩」「鉄道・絶景の旅」「記憶に残る列車シリーズ」「歴史秘話ヒストリア」「
NHKスペシャル」
      「コズミックフロント」「プラネットアース」などの他「相棒」「科捜研の女」「税務調査官」などのドラマ。
      もちろん
NHKニュース。BS放送で野球やテニス。ごくたまに娯楽番組。おふざけ番組や歌番組に
      は全く興味なし。
J 
映像の保存…上記の放送番組のうち特に残しておきたいものはCMを完全に削除したのちDVDに保存。
      かつてビデオテープに保存したものは、かなりの時間と労力を費やし
デジタルTVDVDレコーダーの
      併用により
DVDに移した。現在の在庫はおよそ470枚。
    
 
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 生きていく上でのこだわり 

私は、この國の高齢者にはあまりにも後ろ向きの人が多過ぎると日頃から感じています。折角人間として生まれたからには、たった一度しかない人生を最後まで前向きに生きなければ勿体ないのではないでしょうか?以下、私の考え方を述べてみます。

 
年を重ねることに伴う体力等の変化には留意しながらも、
年齢には縛られず前向きに進んで新しいものに取り組むようにしています。一度しかない人生だからこそ、ただ年を数えていたのでは勿体ないと思うし、青春を奪われた私にとっては少しでもそれを奪い返したい気持ちに駆られているのです。

人間は誰でも年を重ね肉体的には衰えていきます。しかし、
年を取ることは恥ずかしいことでもなければ嫌なことでもないのです。本当に恥ずかしいのは精神の老いです。その点、日本人は「年相応」かどうかをひどく気にする傾向があります。この殻を打ち破って古い”老人モード”から抜け出すことこそ生き生きした生活の源だと信じています。「もう年だから・・・」という後ろ向きの考え方が心身の老いを加速するのだと思います。変人の私は、むしろ早く年を取りたい気持ちがあります。理由は、「ほらこの年までこのように健康で生きてこられたよ」と自分に誇ることができるからです。誰でも簡単にできる発想の転換です。もちろん、そのためには長期にわたる適切な健康管理の継続が不可欠ですが。

初めは手に余るように感じることでも、諦めずに挑戦していけばいつかは壁を乗り越えることができると信じています。最初から諦めていたのでは、何も得られません。求めよ、さらば与えられんです。現代人の欠点の一つに「ちょっと骨が折れそうな事には手を出さない」あるいは「難しくなるとすぐ諦めてしまう」ということがあります。学生時代に壁を乗り越える経験をさせていないことが原因だと思います。

皆が自分の好きなことだけにしか関心を持たなくなるのは非常に危険な一面があると思うのです。なぜならば、関心の対象が違う人間同士ではお互いに相手のことを正しく理解できなくなるからです。もちろん人間の能力には限界があるので全ての事柄に精通するのは不可能です。そこで、誰にとっても「最低限必要と思われることを広く薄く教え込むのが義務教育」ですが、戦後は占領軍の政策もあって「狭く、より薄く」になってしまいました。地理を例にとれば、都道府県の位置と主な都市や世界の主な国々の位置と首都ぐらいはほとんど誰でも知っていました。要するに「最低必要な知識は繰り返し詰め込んだ」のです。それなのに、屁理屈の達者な教育学者などが「詰め込みは悪」というバカげた考えを広めてきたのです。基本になることは理屈抜きで詰め込むことが必要だというのが私の考えですが、子どもの躾なども含めて、詰め込むべきことと自分で考えて結論を導き出させることを区別せずにきたことが、学力だけでなく社会全体のあり方にもある種の悪影響を及ぼしていると思います。

TVやインターネットなどがなかった頃と比べれば、今は膨大な情報が全世界を飛び回っています。もちろんその中には無数のニセ情報や悪意に満ちた情報も含まれています。このような情報過多の時代には個人個人が視野を広めることが非常に大切だと考えています。日々関わる身辺の雑事だけでなく電子顕微鏡の世界からブラックホールの世界まで、広く関心を持つことが大切だと思います。常生活に直接関係する事柄だけにとどまっていると、どんどん視野が狭くなってしまいます。考え、思い、空想するのは自由なのですから、半径
3kmしか見ようとしないのは非常に勿体ないことです。中でもメディアから与えられる情報は十分吟味する必要があります。メディアは視聴率に支配されているためその上昇に役立つ情報しか取り上げません。同じ時間帯に同じ話題をいくつものメディアが放映するのもそのためです。ともすると、そうした情報に乗せられてもっと大切な情報から目をそらされてしまいますが、危険極まりないことだと思います。TVもインターネットもあくまでも自分の意志で使うものであり支配されるものではないのです。もちろん、昨今最強の主役になっているスマホやタブレット端末も。

安全第一をいつも心がけています。思い通りに生きるためには身体という資本が最も大切だからです。しかし「安全第一=消極的」という訳ではないのです。不必要な、つまり避け得る危険からは身を守るということです。人生の全ては大なり小なり確率に支配されています。従って、
危険な目に遭う確率をできるだけ少なくすることが思い通りに生きるためには必要不可欠ということになります。危険を承知の上で行動する必要がある場合は、当然周到な準備をしなければならない訳です。例えば私の場合、自転車に簡単なサイドミラーを付けているだけで後方からの車に対する情報が得られ、安全性は格段に向上しています。これはほんの一例ですが、ちょっとしたことで危険から身を守れるのです。

物事には全て表と裏があります。メビウスの世界のような表裏のないものは皆無です。ある事物の利点にだけ目を奪われていると思わぬ禍いを招きます。日常生活では何事についても利点と問題点を並べて判断を下すことになりますが、どの場合でも必ず
マイナス面の存在を忘れないことが極めて重要だと思います。家庭電器でもインターネットでも車でも、それぞれの便利さだけに目を向けずマイナス面、つまり様々な危険性をも意識してそれに備えることが大切だと思います。どのような利点がありどんな点に注意するべきかはそれぞれ違いますが、選択の仕方には人それぞれの持つ価値判断の基準や人生観が大きく関わってくるように思います。最近はそうした機器に関する基本的な知識さえ欠く人々が増加していますが、これも人任せの生活に慣れ過ぎていることの現れかも知れません。

外見を飾ることに興味を持つのはもちろん人それぞれの自由ですが、大切なのは他の人々に不快感を与えないようにすることです。そのためには
内面を磨くことがより一層大切になってきます。人柄は言動によく表れますちょっとした言動からその人の内面のあり方がわかるものです。日本人は肩書きで人を評価する傾向が強いですが、肩書きと人物そのものが必ずしも比例しないことは昨今の官界や民間企業のリーダーたちのていたらくを見れば明白でしょう。大切なのは誠実であることと他人(特に見知らぬ他人)に対する尊敬の念と優しさだと思います。地位や財産などあらゆる付属品を取り去ったあとに何が残るかで人間としての価値が分かると私は思っています。貧弱な中身にきらびやかな包装をしても本物の値打ちは生まれないでしょう。現代はそのような虚飾にこだわる人が増えているように思えてなりません。

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 旅についてのこだわり 

同じ旅と言っても、その形や内容は人それぞれです。ここでは、「自己紹介」に書かれてあるように物事の価値基準が他の人々とかなり変わっている私の、旅に対するこだわり(つまり、わがままな思い)を書いてみます。

   
原則としてひとり旅です。理由はただ一つ、何の気兼ねもなく自由に歩き回り、気に入った所でたっぷり時間をとって楽しむことができるからです。ツアーコンダクターの旗の後についてドヤドヤと歩き回るのは、私のようなわがままな人間には耐えられないことです。まるで自分の意志を持たない羊が屠所に連れていかれるような感じがしてならないですから。海外旅行も最初のうちはグループツアーで行きましたが、だんだん息が詰まってきてひとり旅オンリーになりました。旅に限らず何事でもそうですが、自分で汗を流し苦労を重ねて得たものは他人任せで楽をして得たものより遙かに内容が濃く、深く刻みつけられた記憶として人生を彩ってくれるのだと思います。

もちろん、グループツアーでなければ出掛けられない人々もいることは当然ですし、私自身もいつそうなるかは分かりません。だからこそ、それまではこのように自分流の旅を続けたいのです。

また、短時間にできるだけ多くの場所を回るのがいい旅とは考えません。旅の目的に合わせて精選した場所を時間をかけて訪れるのが最も意味があると思っています。

ひとり旅の場合は当然
綿密な事前調査と周到な準備が必要になります。旅に出掛ける前に現地の状況を十分に把握し、全体の輪郭を頭に入れておくことです。これは一見面倒な作業に見えますが、この過程が旅の楽しさを倍加させてくれるだけでなく、何回も吟味を繰り返している間に地図もルートも自然に頭の中に入ってしまいます。

また、特に
海外の場合は安全に関する情報は確実に得ておくことが必要です。もっとも、最近は国内にも”人間の皮を被った野獣”が多数放し飼いにされているようなので、決して油断はできませんが・・・・。

私の場合、
まず体力を必要とする海外の旅、そののち国内の旅をと考えました。事実、あの狭い機内で十数時間も過ごすのは、決して楽なことではありません。特に時差の大きい東西の移動は、時差対策をきちんとしてもかなりきついものです。

それにもかかわらず、私には国内より海外の方が向いていたようです。国内ではどこに行っても混雑する上公共マナーに無頓着な人も増えて気疲れがひどく、ゴミの散乱やタバコ騒々しいわめき声などに悩まされますが、海外では場所さえ選べばそのようなことは殆どなく自分の流儀で落ち着いて歩き回れます。
外国人に囲まれて見知らぬ土地にいると自分が地球上に存在しているのだという思いが不思議なほど身近に感じられます。

国内は
50代までの信州を主とする登山以外はほとんど訪れてなく、北海道には2005年まで、四国に至っては2010年まで一歩も足を踏み入れてはいませんでした。最後の未踏の地であった九州には2012月になって初めて行きました。2002年から国内の旅に切り替えたもののほとんどは登山やハイキングという有様でしたが、最近はさすがに体力の関係から街歩きも多くなってきました。

移動は公共交通機関、とりわけ鉄道が最優先です。荷物の問題などちょっとした苦労はありますが、出発日と帰着日は宅急便を利用すれば問題ありません。何と言っても全ての交通機関の中で際だって安全です。元々レールファンでもあり、車窓からゆっくり風景を楽しんだり駅弁に舌つづみを打ったりするだけで十分満足できるのです。鉄道車両自体への関心も深いので、退屈する暇はありません。どんなに低料金でも、車内が狭く危険がいっぱいの道路を走る長距離バスは大の苦手ですし、事故に遭う確率が他の交通機関より格段に高く(年間数千人もの死者とその100倍以上の負傷者を生み出す)無法ドライバーが年々増える車はもちろん、事故の確率は低いものの一旦落ちればまず命がない飛行機も真っ平ごめんです。「格安」という文字を見た途端その裏に見え隠れする「安全軽視」を思い拒否反応を示すという変わり者で、費用や所要時間、乗り換え の多さなどよりも、安全性の確率の高さを先ず考えてしまうのです。
     

 旅先で見かける諸々の光景 

ここに書かれた内容は、私の今までの経験から独断と偏見に基づいて書いたものなので、
当然異論があると思います。
ご意見があればメールコーナーからお送りください

      
私は
観光バス旅行がどうしても好きにはなれません。狭い車内に押し込められ、聴きたくもない歌やガイドの説明を押しつけられるのが苦痛だからです。戦後流行し始めたこのタイプの旅が果たした旅行大衆化の功績はもちろん理解していますが、その反面、車内での勝手放題な振る舞いを車外の公共の場にまで平然と持ち込み、団体なら何でも許されると迷惑行為を平気でやらかすような風潮を作り出したのも事実だと思います。普段会うことのない人々との交流に大きな楽しみを見いだす人も多いようですが、それはそれで結構なことではあります。しかし、私はとにかく「みんな同じ」という形が大の苦手なので、観光バスには興味を持つことができないのです。

普段でもそうですが、旅先で道を譲るなどちょっとした気遣いをしても「有り難う」「済みません」の言葉はほとんど聞かれなくなってしまいました。別にこうしたお礼の言葉を期待している訳ではありませんが、
これらの言葉はごく自然に出るはずのもので、それがないこと自体が現代日本人の内面の貧しさを表していると思うと、とても寂しい気持ちになります。欧米人なら大多数が必ず Thank you. Excuse me. Please・・・などという言葉をごく自然に返してくることは、ヨーロッパを個人で歩いた人なら誰でも知っているでしょう。それどころか戦前の日本人はそうした面では遙かに礼儀正しく温かい応対ができたのです。

他人を押しのけて平然としている人も増えています。彼ら(彼女ら)は「譲る」ことを負けることだとでも思っているのでしょうが、そうした行為が自分自身の心の貧しさのバロメーターであることに気づいて欲しいものです。人のひしめく狭い国だからこそ、尚更お互いに譲る気持ちが大切なのだと思うのですが・・・・。ついでに言えば、人々の歩き方も随分下手になっています。本来は周囲の人の動きに気を配りながらできるだけ接触を避けるように、ごく自然に歩く方向やスピードを調節するのですが、ひたすら自分の目指す方向に突進する人が目立つようになってきました。当 然のこととして腕や持ち物がぶつかったり、ときには身体をよろけさせたりで、一悶着起きる原因にもなります。方向や速さの調節に加えて、混み合う場所では身体自体を斜めにするだけで接触が避けられるのに、それすらやろうとしません。ここにも、現代日本人の自己中心的な面が現れていると思います。

旅先で楽しく過ごしたいのは分かりますし、グループで笑いさざめくのが悪いとは言いませんが、問題は周囲への気配りです。
周りの人たちに迷惑がかからない程度の”音量”に抑えるのが常識でしょう。静かに風景などを味わいたい人間にとっては非常に迷惑なものなのです。ここにも、仲間には気遣いを示せても見知らぬ人々には無遠慮になってしまう現代日本人の習性が現れています。電車内などでも同様の振る舞いに少なからず遭遇するため、私はいつも耳栓を携行しています。

公共交通機関には”優先席”というものが存在していますが、多くの場合その必要がなさそうな人々に占められています。私の場合は一応高齢者でも足腰が強靱なので全く必要がなくこだわりませんが、中にはどうしても優先席を利用したい人もいる筈です。本来、状況に応じて席を譲るのは当たり前なことですが、ここでも、公共マナーというより
他人に対するいたわりの点では戦前に遠く及ばなくなっていることを感じます。経済至上主義の社会は、必ずこのような人間性の摩耗を招くのです。

登山道などでは原則として「登り優先」です。また、貴重な高山植物などを踏みにじるようでは、自然に向き合う資格があるのかどうかさえ疑問になります。「他人が行くから行く」という無目的な人々はとかくこのようなことに気を配らず身勝手な行動を取りがちです。

素晴らしい自然景観が沢山あるのに、
これほど貴重な自然を痛めつける国は先進国では日本だけでしょう。自然界の極めて微妙なバランスを理解しようともせず開発という名の破壊を繰り返している有様を目の当たりにすると、怒りを通り越して悲しくなってしまいます。観光立国をいくらうたっても、肝心の自然を大切にしない限り、京都や奈良などお決まりの場所以外を訪れる外国人が激増することは望めないと思います。

100年も前に4000mの高所まで車以外の交通機関だけで行けるよう整備したスイスは別格としても、所嫌わず自動車道路をつくって観光客を誘致する近視眼的な方策がどんなに自然に大きなダメージを与えるかさえ認識していないのには驚きます。「誰もが楽にいい景色を眺められるように」は表向きで、実は「カネ儲けのためには手段を選ばず」というだけのことです。車は自然を傷めるだけでなく静かに眺めたい人々を危険と騒音、排気にさらし、時にはゴミを持ち込む不心得者も招き入れてしまいます。マネーはあってもマナーを失ったこの国では今はあちこちでよく見かける悲しい光景です。

少なくとも観光の目玉であるいわば核心部へは、電気自動車か徒歩で行くようにするのが自然を大切にする態度でしょう。パーク&ライド方式を取り入れるのも一案です。
安易に車を入れてならないのは尾瀬や白神山地だけではないのです。近年世界遺産に指定された知床も観光道路ができた今では、いつ「ゴミ半島」と化すのではないかと危惧しています。富士が山麓や山頂の汚さを理由に長いこと世界遺産に指定されなかったなど昔風に表現すれば「国辱」でしょう。都市郊外にこのような場所が無数に存在することから考えれば、富士はその(日本人のモラルの低さの)「象徴」に過ぎないのかも知れませんが、これも精神的なアメリカナイズのなせる技の一つに過ぎないように思います。。
        
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 旅のプラン作りの手順と実例 

現在は以前のように頻繁に旅に出掛ける状況ではなくなりましたが、プラン作りの方法は多くの人にとっても多少は参考になるのではないかと思い、ここに掲載しました。

ひとり旅が多かった私にとって、具体的な行動プランを詳細に作るのは現地での行動をスムースにするためには必要不可欠なことでした。そこで編み出したのがこのような形の旅行計画です。

   
現地でいちいちガイドブックを開いて情報を探さなくても済むように、行動時に必要と思われる事柄を網羅したものを作ります。
部は携帯用とし、紛失に備えて予備も作成します。

急に予定を変更せざるを得なくなる場合を予想して、乗り物などは必要と思われる範囲まで情報を把握しておきます。

時間配分は標準の
20〜30%増しに設定します。これによって余裕ができ、状況の変化に応じて最適の行動を取ることができます。



 プラン作りの手順 


    
@ 旅のテーマをはっきりさせる。何を見たいか、そのためにどこに行くかなどの候補を挙げて
       みる。初めは思いつくまま書きとめ、優先順位をつけておく。  
        
    
A 市販のガイドブックやインターネットから得た情報を使って候補地の情報を収集し、旅の
      目的にどの程度合うかを判断
して取捨選択をする。
         
    
B Aで選んだ場所を、なるべく重複せずに順序よく回れる経路を検討する。
         
    
C @〜Bをもとに、具体的な行動プランを作ってみる
         
    
D Cで組んだ日程の中に無理や無駄がないかどうかを検討し、修正を加える。
         
    
E 最後にもう一度全体計画を細かくチェックして、最終的に決定する。

    ※ 
海外旅行の場合は、できるだけ訪問国の航空会社の便(直行便がないときは、訪問
       国以外の外国航空会社の便)
を利用するのがよいと思います。そうすることによって、
      発から帰国までずっと外国滞在中と似た雰囲気を味わえる
のです。ヨーロッパなど遠
       隔地への旅では
1〜2日を機内で過ごすので、決して無駄にはできないことです。
    

 2007年「中欧都市巡りの旅」の計画立案に使用した資料は、下記の通りです。 

    トーマスクックの
  ヨーロッパ鉄道時刻表
    地球の歩き方
    (ハンガリー版) 
    地球の歩き方
   (オーストリア版) 
    地球の歩き方
     (チェコ版) 


     このときの旅では、現地の詳細な情報取得にインターネットが非常に役立ちました。

    
   ○ 気象関係の情報(天気、特に気温変化の見通し)
           
※ 各都市の詳しい天気予報や週間予報も随時容易に得られました。
        ○ 時刻表に掲載されていない交通機関の情報
           
※ トーマスクック時刻表の発行日の関係で、利用できる列車の把握はインターネッ
              トに頼りました。東欧関係は、ドイツ鉄道やハンガリー国鉄の
HPが役立ちました。
           
※ 地下鉄やトラムの運転間隔、バスの時刻表まで把握することができました。
        ○ ホテルの宿泊設備やサービスの状況・・・かなり細かい情報も得られる。
           
※ ホテルとの間で、予約確認や禁煙ルーム希望、その他の情報取得のため何回
              かメールを交換しました。

        ○ 訪問地や施設に関する細かい情報
 
           
※ 各都市や施設のHPにアクセスして、有用な情報を多く得ることができました。
       
○ その他、様々なリアルタイム情報 
           ※ ガイドブックに載っている情報の中には結構古いものや誤ったものが含まれていま
              す。それだけに、インターネットによるリアルタイムの情報はたいへん貴重です。

      このように、インターネットを利用するかどうかで大きな情報量の差が生まれます。
       もちろん、このことは国内の場合でも同様です。



 プランの実例 

 2007年「中欧都市巡りの旅」のプラン(全22ページ)の中から、その一部を示してみます。

 @ 初日、ブダペストの空港での手続きから、ホテル到着までの必要事項のまとめです。 

   ○ 初めての土地であるだけでなく、旧東欧ということでシステムの違いも予想されるため、空港構
      内の施設配置などを勘案して処理手順を決めました。その結果、全く迷わずスムースに動けま
      した。
   ○ 特に全く知らないハンガリー語の表示にまごつかないよう、単語に添えてその発音も書いておい
      たのが役立ちました。

     ※ ホテルの地図と写真は、移動手段によっては不可欠であるので添えました。 

          A ブダペストからウィーンに到着後の時間を利用してシェーンブルン宮殿を訪れるプランです。

   ○ の●印は地下鉄路線の色と途中駅の数を表しています。こうすることによって、途中
      駅の駅名が見えなくても目的の駅で降りることができます。

   ○ ホテルはまだチェックイン時刻前でスーツケースだけ預けてリュックで出掛けたのですが、全
      く迷うことなく余裕を持ってシェーンブルン宮殿と庭園の散策を楽しむことができました。
   ○ シェーンブルン宮殿を訪れた理由は、ここだけが他の目的地とはかけ離れた場所にあるか
      らです。これが功を奏して、翌日ウィーン中心部の多くの施設を効率的に回ることができました。

 B ウィーンからプラハへ移動し、ホテルに到着するまでのプランです。

   ○ 直通列車が少ないので、予定したEC172以外の乗り継ぎできる列車も併記しました。万一の
      場合のためです。
   ○ 
の●は、ウィーンの場合と同じように地下鉄路線の色を示しています。


     
実例についての補足説明                          

  
○ 海外の地名は、カタカナでなく現地語の表記にする方がよいと思います。あまりなじみのない
      国の場合は、現地語とカタカナの併記がいいでしょう。そうすることによって、現地の駅や施
      設、町中に掲げてある地名との対照ができます。
   ○ 入国手続きも国によって多少の違いがあるので、常識的なことでも明記しておくとその場で迷
      ったりすることがなくなります。
   ○ 鉄道路線に付記してある(  )内の数字は、トーマスクック時刻表の中に掲載されているテ
      ーブルナンバーです。
   ○ 予定している列車以外にも利用可能なものを複数挙げておくことが大切です。状況が変わ
      ったときに慌てて調べ直したりする必要がなく、臨機応変が簡単にできます。
     

国内の旅やトレッキング・ハイキングの場合もほぼ同様のプランを作っています。

2009年の秋、快晴の日間、山と峡谷と世界遺産の村を歩き回ったときのプランです。

   ○ 赤数字は利用する予定の電車やバスなどの発車時刻と到着時刻であり、黒数字は利用
      可能な他の便の時刻です。予めこうしておくことで臨機応変の対応が容易にできるのです。
   ○ 山岳地帯を旅するときは、高さの表記が気温の予測その他にも役立ちます。

   ○ 荷物の処理や食事の用意なども忘れることのないよう書いておきます。



  
    
国内の旅の際には、概ね次のような手順で準備を整えています。           

   ○ 旅の目的地と経路がほぼ決まった段階で、利用する列車やバスなどの候補をいくつか挙げ
      てみます。ここではもちろん
JTB時刻表が大活躍します。
   ○ ホテルの選定は、主として「旅の窓口」サイトで行います。立地条件、アクセス、設備等を確
      認し、特に翌日の行動への利便性を重視して選びます。
   ○ 列車については、天候の見通しが立つ時点まで選定を待ちます。ただし、混雑が予想される
      場合は早めに指定券を確保します。一応”高齢者”なので、座席の確保が不確実な自由席
      は敬遠することにしています。
   ○ 列車の空席情報は、
JRサイバーステーションのサイトで毎日把握し、その空席状況に応じて
      指定券の購入に踏み切ります。
   ○ バスの運行時刻は
JTBの時刻表で調べますが、なるべくバス会社のHPで再確認します。
     
HPがない場合は電話で確かめます。地方のバスは本数が少なく、確認を怠ると旅に致命
      的な支障が起きがちなので、それを避けるためにはこれが不可欠です。



このようにして作り上げたプランは、旅行業者に全てを任せた場合のような
他人から与えられるものとは根本的に違います。全てを自分自身の興味・関心や行動スタイルに基づいて組み立てるため、天候などの条件にさえ恵まれれば満足度は100%に限りなく近づきます。自分にとって無意味な時間を費やすことがないからです。

個人旅行はグループツアーに比べれば確かに費用は高めになりますが、それは「
旅の満足度を高めるためのコストにほかならず、決して無駄ではないというのが私の考え方です。

また、短時間に多くの場所を回るのがよい旅とは思いません。それより、
精選した所だけをじっくり時間をかけて訪れる方がずっと意味があるように思います。

迷惑な言動やいらぬ束縛に煩わされず
(心身ともに自由に)過ごせるひとり旅は、全身で自然の懐に飛び込みたい私にとっては最良の旅のスタイルなのです。

若く体力のあるうちは、事前の準備なしに気の向くままスマホ片手の気ままな旅も楽しいことは確かです。でも、無理をすれば必ず何かの形で支障が出る年齢になると、やはり周到な準備をする必要があります。私は、これからも可能な間はこの方式で自己流の旅を続けます。

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私の人生を支えてきた山と音楽

私の人生もいよいよ終盤にさしかかっているのはまぎれもない事実ですが、この期に及んでもなおかつ前向きの姿勢を保っていられるのは思い出の中にその源があるからです。世間ではひたすら前だけ見て突き進むのが立派な生き方だと思われがちですが、決してそうではないと思います。若いときは失敗を怖れない猪突猛進が必要な時期もありますが、人生経験が増した段階では過去の経験の蓄積から学ぶことも大切になります。歴史を無視してならないのは國でも個人でも変わらないのです。

戦前から戦中、更に戦後にわたる国家体制や社会状況の激変の中で生きた経験は自己紹介にも少しだけ書いた通り異常極まるものであり、潔癖で神経の細かい私にとってはこの上なく残酷なものだったことは間違いありません。そうした私に大きな勇気と喜びを与えてくれた山と音楽は何ものにも代え難い伴侶と言うべき存在であり、ここに特記することとしました。、

 山、この畏敬すべき大自然の創造物!


私は、決して大きなリュックを背に何日も山にこもったり、アルプスの深奥部を徘徊したりするような本物の山男ではなく、本格的な山行の回数は微々たるものでしたが、山を愛する気持ちは今でもプロやセミプロの人々にも負けないつもりです。私にとって山はいわば心のふるさとであり、かけがえのない宝なのです。高齢になった昨今は実際に登ることができない場合も多くなりましたが、ただ眺めるだけでも、写真やDVDで間接的に触れるだけでも、それだけで胸が熱くなるという文字通り”恋人”のような存在です。幸い今でも心臓も強く健脚なので適当な山を選んでは出掛けています。ただし、決して急がずゆっくりとマイペースで登りますし、下山のときは登りよりずっと慎重に十分足場を見極めながら下るようにします。捻挫などのような事故を防ぐだけでなくその方が自然の繊細な部分にまで接することができるからです。もちろん状況に応じて引き返す勇気も持ち合わせています。

一旦山に入るとさすがの私のような偏屈者もたちまち素直になり敬虔な気持ちになります。山の霊気がそうさせるのでしょうが、昔からの山岳信仰の源もこのあたりにあるような気がします。残念なことは、
登山ブームが山の怖さやマナーを知らぬ人々までも山に引き寄せ、山歩きの基本を忘れて他人を危険にさらしたり、貴重な高山植物を痛めつけたり、時ならぬ姦しい騒音で人々の心をかき乱したりなど、自然愛好者にはあるまじき残念な行動が目立ってきました。大衆化の代償として仕方ないのかも知れませんが、静寂の中で山と対面することを望んで訪れる人々には残酷な仕打ち以外の何ものでもありません。

80歳を過ぎてからはやはり体力の衰えもあり、低山を除けば麓から登るのはきつ過ぎるようになりました。最近は専ら「ニセ登山」を楽しんでいます。つまり、途中まではロープウェイなどの公共交通機関を利用し、そこから先を自分の脚で登るのです。私の場合は山の雰囲気を味わうのが主目的なのでそれで十分なのです。

長年の間深い悩みや苦しみに耐えながら生きてきた私にとって、
山や高原を歩くのは単なる趣味の域を超えるものなのです。日頃の生活の中で積もり積もったストレスをたとえ数時間〜数日の間でも忘れさせてくれるのが山歩きであり、そうした意味で山は私にとっては文字通りの救世主と言っても過言ではないのです。

ごく僅かな山行ですが、特に印象の深かった山行の中からいくつかを抜き出して書いてみます。

 想い出の山行  

登山を始めたのは
30歳前後で、最初に登った山らしい山は三ツ峠山でした。職場の仲間との集団登山でしたが、初めて接する岩場や早朝の富士の姿を目にすることで、登山の楽しさにはまってしまったようです。若さにはつきものの無鉄砲さもあり、この後いきなり単独でアルペン的風貌の南八ヶ岳連峰の縦走に挑戦することを考え始めました。これが私にとって初めての高山への挑戦だったのです。

南八ヶ岳連峰縦走 (日時は不明だが、多分1965の8)

ルートは、甲斐大泉〜三ッ頭山〜権現岳〜キレット小屋(泊)〜赤岳〜横岳〜硫黄岳〜本沢温泉
    〜稲子湯〜松原湖


最も一般的な編笠山からの登山道は相当の混雑が予想されるためこのルートを選んだのですが、一見して初心者には困難なルートです。でも、「盲、蛇に怖じず」のことわざ通り、権現岳まで
1500mの標高差を
時間ほどかけて登り切りました。途中出会った登山者は下っていく熊本の人だけでしたから、よく無事だったと思います。準備だけは一応整え、国土地理院の地図から自作した高低図でペースを変えるなど工夫はしていました。権現岳と赤岳の間の鞍部にあるキレット小屋に泊まった翌朝ガレ場を越えて快晴の主峰赤岳の2899mの頂上に立ち、そこから遙かな北アルプスを望んだときの言葉では表現できない深い感動が、私を山のとりこにしたことは確かです。ついでですが、当時の山小屋はホテル並みの現在の施設とは雲泥の差で、やっと雨風を凌ぐことができるだけのものでした。赤岳頂上での感動の余韻にひたりながら足元の岩の隙間から1000m下がのぞける高所恐怖症には禁物の横岳を経て、爆裂火口の広がる硫黄岳で小休止のあと本沢温泉経由でひたすら下山した訳ですが、夕闇の迫る暗い森の中をたった独りで歩く間ずっと耳に聞こえるのは落ち葉を踏む自分の足音だけでした。やたらにクマが出没する今ではもうこんなことは危険でできないでしょう。このように八ヶ岳は私の山歩きの原点で眺めるたびにひどく懐かしく思われるのです。

以後は当然のように
北アルプスへと気持ちがはやり、ちょうど当時在籍した職場で良い仲間を得たこともあって仕事の合間を縫っては山に出掛けました。もちろん当時は夜行列車で、
山好きにはおなじみだった新宿発23:55の夜行列車(通称ニイサンゴーゴー)もしばしば利用したものです。春の連休には足慣らしに南アルプスの前衛である夜叉神峠に登って雪を戴いた白峰三山を眺めるのが恒例となり、夏は北アルプスを目指すようになりました。

谷川連峰縦走 (1965.8.16〜8.17)

ルートは、水上(泊)〜土合〜西黒尾根〜トマの耳〜オキの耳〜一ノ倉岳〜茂倉岳〜茂倉新道〜土樽

谷川岳は比較的近いにもかかわらずアルペン的な気分が味わえるため度々訪れましたが、これは初めて縦走したときの記録です。頂上への代表的なルートである西黒尾根ではかなりのエネルギーを費やしますが、そのあと二つのピークであるトマの耳、オキの耳経由で岩峰が続く一の倉岳を通過し茂倉岳に着くと、それまでとは一変する広い草原にホッとします。このルートはこのように変化に富んでいる楽しさがあるのですが、残念なことに上越新幹線が開通してからは在来線がひどく不便になり土樽に停車する列車が2,3時間に1本に減ったため、もうこのような縦走は不可能になってしまいました。。まだ日曜日しか休みでなかった当時でも、土曜の夜行列車で土合に
3時頃着きその後縦走して日曜の夜遅くに帰宅しても、翌日からの6日間の勤務が何でもありませんでした。むしろ普段より調子が良かったくらいです。まだ30
後半の若さでしたから当然と言えば当然かも知れません。

北アルプス表銀座縦走 (1966.8.1〜8.5)

ルートは、有明〜中房温泉〜合戦尾根〜燕山荘(泊)〜燕岳〜蛙(ゲーロ)岩〜(喜作新道)
    〜大天井(オテンショウ)岳〜西岳〜水俣乗越〜東鎌尾根〜槍ヶ岳山荘(泊)〜槍ヶ岳頂上
    〜槍沢〜横尾〜徳沢〜明神(泊)〜上高地〜大正池〜上高地〜新島々〜松本


北アルプスへの初挑戦はやはりアルプス銀座
でした。想像を遙かに超えるきびしい合戦尾根の時間にわたる苦しい登りに耐えて燕山荘近くの尾根に出たときは、比較的天候に恵まれてもいたため槍ヶ岳を始めとする北アルプス独特の景観に衝撃的な感動を覚え、大自然に対する畏敬の念が一層深く私の心に刻み付けられました。燕山荘で一夜を明かしたのちの稜線歩きは、天上沢から吹き上げる涼風に身を任せながら、ずっと姿を見せてくれる槍ヶ岳とそれに続く鋭い北鎌尾根に感嘆したり、大天井岳の高山植物群落に目を見張るなど楽しく時間が過ぎたのです。しかし、西岳からの鉄ばしごによる急降下に続き岩ゴロゴロの東鎌尾根ではそのきびしさに足取りも重くなり、薄暗くなりかける中を槍ヶ岳山荘に着いたときはかなりの疲労を感じていました。それにもかかわらず、翌朝早くくさりや梯子で槍ヶ岳の頂上に登ったとき、雲海を見下ろしながらの
360度の展望は本当に素晴らしいものでした。遠く見える八ヶ岳のシルエットに特別な懐かしさを感じたのはもちろんです。山から下るのはいつも嬉しいものではありませんが、夏の槍沢から明神までの緩やかだが長い下りは見晴らしのほとんどない梓川沿いの単調な道で、槍沢の突端の雪融け水の冷たさが唯一の救いでした。決していわゆる”山男”ではない私なので10時間近くかかったような気がします。こうして初めての北アルプス登山が終わりました。

白馬連峰縦走 (1967.8.1〜8.5)

ルートは、信濃四ッ谷(現白馬)〜八方(泊)〜八方尾根〜八方池〜唐松岳頂上山荘(泊)
    〜不帰(カエラズ)の嶮〜天狗ノ頭〜白馬鑓ヶ岳〜杓子岳〜白馬山荘(泊)〜白馬本峰
    〜三国境〜小蓮華山〜白馬大池〜乗鞍岳〜栂池〜信濃森上


アルプス銀座の次に狙ったのがこの白馬(シロウマ)連峰ですが、有名な大雪渓ルートを取らなかったのは、このルートに並ぶ峰々の特徴が際だっている上、稜線歩きをしながら存分に剣岳を眺められるからです。八方尾根も山上湖の八方池を過ぎると急傾斜になりますが、アルプス銀座の合戦尾根と比較すればずっと楽です。すし詰め状態の唐松岳頂上小屋を出て間もなくの不帰の嶮はカニの横這いや岩壁の急降下がある北アルプスでも指折りの難所ですが、無我夢中だったせいか気が付いたときは無事に通過していました。数年前に岩茸山から眺めたときは「よくあんな所を何事もなく通過できたものだ」と思ったものです。不帰の嶮の通過後は快晴の中を高山植物や雷鳥との出会いを楽しみながらのんびりと歩き、巨大な白馬山荘に入るまで延々10時間かかりました。途中で遠くに雷雲が見えるようになり急ぎ足になったものの、長距離ルートに挑戦したご褒美にずっと並行する立山連峰の姿を眺めることができ、特に岩の殿堂剣岳が少しずつ姿を変えながら見事なピラミッド型になるまで顔を見せてくれたのは、本当に嬉しいことでした。また、早朝の白馬本峰から見た日本海に湧き立つ沢山の雲の柱や信州側に沈んだじゅうたんを思わせる雲海も印象的でした。三国境の手前の小さな雪原で遊び白馬大池のほとりで食事を済ませてから乗鞍岳を経て下山に取りかかったのですが、大きな岩が積み重なった上伸びきった夏草で風も通らず予想外に辛かったことを覚えています。下山後の神の田圃で振り返ったとき目に映った雷雲のまとわりついた白馬連峰の姿がひどく遠いものに感じられました。当時はまだ栂池自然園はなく、乗鞍岳から信濃森上駅まで二本の脚だけが頼りだったのです。


穂高連峰縦走 (1968.7.30〜8.3)

ルートは、上高地(泊)〜明神〜横尾〜本谷橋〜涸沢ヒュッテ(泊)〜北穂高岳南稜〜北穂高岳
    〜涸沢岳〜穂高岳山荘(泊)〜奥穂高岳〜吊り尾根〜前穂高岳〜重太郎新道
    〜岳沢ヒュッテ〜上高地


秋の紅葉が素晴らしい涸沢から見たパノラマ通りの穂高連峰縦走です。上高地から横尾までは梓川沿いの森の中を辿る緩やかな道ですが、横尾を過ぎると徐々に傾斜が増し屏風岩を迂回してようやく涸沢ヒュッテに到着しました。翌日は色とりどりのテントが並ぶ通称涸沢団地を横目に見ながら南稜に取り付き、かなりの消耗を強いられたものの何とか北穂高岳に着き更に宿泊予定の穂高岳山荘へと向かったのですが、涸沢岳付近で霧雨に見舞われ滝谷側に傾斜した滑り易い縦走路に肝を冷やしながらやっとの思いで通過したのです。早朝の奥穂高岳への登りはさほどきつさも感じないまま頂上に辿り着き、北アルプス最高所からの眺めを楽しむことができました。
21年後に訪れたノルウェーでのスタルハイムからの眺めがここからの上高地の眺めによく似ていて、錯覚を起こしそうになったこともありました。奥穂高岳から前穂高岳までの吊り尾根は特に危険もなく順調に通過できたのですが、その後の下りがラクダのコブの連続でひどく苦労させられたことは今でも鮮明に覚えています。涸沢カールから憧れの穂高の峰々を初めて仰ぎ見たときの感激、奥穂高の頂上から周囲の山々や上高地を見下ろしたときの深い満足感など、
50年近く経った今なお甦ってきます。

立山連峰縦走 
(1976.8.23〜8.26)、(1988.8)

ルートは、扇沢〜黒部ダム〜黒部平〜雷殿〜東一の越〜一の越山荘(泊)〜雄山〜大汝山
    〜富士の折立〜真砂岳〜剣御前小屋〜雷鳥沢〜みどりが池〜みくりが池〜室堂


現在は閉鎖されてしまったようですが、立山トンネルの途中の雷殿でトロリーバスを降り、そこから一の越山荘まで草つきの斜面を
2時間ほど登ると、もう立山の稜線です。一の越山荘に泊後の早朝の尾根歩きはとても爽快で日頃の苦労などどこかに吹き飛んでしまいそうでした。雄山の頂上に祠がありそこを通らないと先に進めないのは神仏にかなり抵抗のある私にはちょっと嫌な気分でしたが、そこからは雲はあるものの快適な縦走路で、山上のコーヒータイムなども楽しいものでした。最後に室堂平に下りバスとケーブル、電車を乗り継いで富山に出たあと銭湯で汗を流して帰りました。このルートは、12年後に職場の若い同僚と再度訪れましたが、そのときはもう
mm撮影機からフィルムカメラに切り替えていたため、普通の写真でホームページにも掲載しています。


 『8mmフィルムからの写真作成に成功!

上に書いたように、これらの山行では専ら当時の最新機器であった8mm撮影機を持参したのです。かなりかさばる上に結構重く、フィルム交換もブラックバッグの中で手探りで行う代物でした。筋骨隆々とは無縁の非力であるためとても別にカメラまで持つ余裕はありません。これが今になってみると大失敗で写真が全くないのです。20本近くある山行の記録フィルムの中で必要な部分はほんの一部であるのに、全てをカメラ店で写真にしてもらうと数十万円もかかると知り、自分で何とかしたいと常々考えてきました。色々と考え工夫した結果、8mm映写機にかけたフィルムを適当に見当を付けて数十回止めては切り取り、フィルムスキャナーを使ってそれらの画像を取り込み更にPhotoshop Elementsで加工することで写真にしてみようと工夫した結果何とか見られるものが出来上がりました。色彩の劣化はもちろん、小指の爪程度の細かいフィルムをかなりの倍率で拡大するため、不鮮明な画像になるのはやむを得ません。それでも、写真が全くないのと比べれば雲泥の差です。2005月以降はこの方法による画像を展示しています。

  音楽、この素晴らしい人類の創造物!


私が特に強い関心を持っているのは主としてクラシック音楽です。ヴァイオリンやピアノのソロ、それに交響曲も好きでしたが、最近は協奏曲や小編成の室内楽に興味が移っています。特にバッハとショパンの音楽には強く惹かれています。クラシック以外でも色々ありますが、心の安らぎを感じさせてくれるようなポピュラーやフォークなど、それにラテン、シャンソンなども大好きです。ピアノも全くの独学ですが、初見には結構強いので何とか楽しむことができます。

最近まではアップライトピアノを弾いていたのですが、住宅地のため周辺への気兼ねがあり中々長時間楽しむことはできませんでした。それに、弾くことのできる時間が細切れ状態ではどうしても一つ一つの曲に集中する訳にはいかず、色々なジャンルの曲を片っ端から弾きまくるようになりがちです。当然、自分で納得のできるような仕上がりにはなりません。

そこで、最近古くなったピアノを処分して電子ピアノに買い替えました。初期のものとは違いかなり機能が充実しているため、ほぼピアノと同じ感触で弾くことができます。色々な音色での表現も可能なので、例えばバッハの曲をハープシコードで表現できるなどの楽しみもあります。ワンタッチでの録音もでき、何よりも、ヘッドホーンを使えば「いつでも、弾きたいときに弾ける」点が最大の利点です。これで、一曲ずつを十分な時間をかけて仕上げていくことができるようになりました。

 『音楽との関わり』

私の音楽に対する興味傾向は決して”通”のようなものではなく、ごくありふれた曲に限られています。以下、作曲家ごとに、好きな曲をいくつか挙げてみます。

J.S. バッハ ……ヴァイオリン協奏曲番・番、ブランデンブルク協奏曲、管弦楽組曲番 ・番、
           トッカータとフーガ
ヴィヴァルディ……ヴァイオリン協奏曲
1番〜番、和声と創意への試み(含む「四季」)、調和の幻想
ベートーヴェン交響曲番「英雄」、交響曲番「運命」、交響曲番「田園」ピアノ協奏曲番「皇帝」、
           ピアノ協奏曲
番〜番、ロマンス1番・2 ピアノソナタ番「悲愴」
           ヴァイオリン協奏曲ニ長調
ヴァイオリンソナタ
モーツァルト…… 交響曲
40番・41番(ジュピター)、ヴァイオリン協奏曲番〜番、
           ピアノ協奏曲
26番「戴冠式」、クラリネット協奏曲イ長調、
           セレナード
13番「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」、ピアノソナタいくつか
.ショパン………ピアノ協奏曲・2番、どのピアノ曲も好きだが強いて順序を付ければ先ず ノクターン、
           次にバラード、プレリュード、あとはワルツ、マズルカ、ポロネーズとなります。ショパンの曲は
           バッハとは違った意味で私の感性に合っています。
シューベルト…… 交響曲
番「未完成」、ピアノ五重奏曲「ます」、「楽興の時」などのピアノ曲、
           歌曲集の「白鳥の歌」、「美しき水車小屋の娘」、「冬の旅」
メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲ホ短調、ピアノ協奏曲

チャイコフスキー  ピアノ協奏曲
番、バレエ音楽「白鳥の湖」「くるみ割り人形」など
ヨハン・シュトラウス…「美しく青きドナウ」「芸術家の生涯」などのワルツ、「アンネン・ポルカ」などのポルカ、
          「こうもり」などの序曲

その他、スメタナの交響詩「我が祖国」、グリークのペールギュント組曲、ビゼーの組曲「カルメン」と 「アルルの女」、サン・サーンスやパガニーニのヴァイオリン協奏曲、 ドボルザークの「スラヴ舞曲集」などもお気に入りの曲です。

また、小曲の中で気に入っているものを挙げてみると、次のようになります。

クライスラーの「美しきロスマリン」「愛の喜び」「愛の悲しみ」「ロンディーノ」などのヴァイオリン曲、サン・サーンスのヴァイオリン曲「序奏とロンド・カプリチオーソ」サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」のヴァイオリンによる演奏 「カヴァレリア・ルスティカーナ」「聖母の宝石」「タイスの瞑想曲」「マドンナの宝石」「女学生」 「スケーター・ワルツ」「ラ・カンパネラ」「ペルシアの市場にて」「牧神の午後への前奏曲」など

このように、クラシックと言っても興味の対象がかなり偏っているのが私です。例を挙げれば、有名な作曲家でありながら、ブラームスやマーラー、ムゾルグスキー、ショスタコーヴィッチ、パルトーク、ヘンデル、ハイドンなどはこの中に出てきません。どういう訳か感覚的に合わないのです。

カラヤンのベルリン・フィル、バーンスタインやベームのウィーン・フィル、マゼールのロンドン交響楽団、セルのクリーブランド管弦楽団、フィドラーのボストン・ポップス・オーケストラ、ストコフスキーのチェコ・フィル、リヒターのミュンヘン・バッハ管弦楽団などがお気に入りで、音楽会に出掛けるのが難しくなり代わりに
CDを大量に買い込んだときも演奏者と指揮者、録音日などを見て選びました。最近も眠る前に時間ほどCDで音楽を聴くのが恒例になっています。

また、イ・ムジチ合奏団による「四季」は毎年欠かさず聴いていましたし、年末のウィーン・フィルによるニュー・イヤー・コンサートの衛星中継も楽しみの一つになっています。

ギーゼキングやホロヴィッツのピアノ、ハイフェッツやミッシャ・エルマンのヴァイオリンも遠い昔になりました。
           

クラシック以外で興味を惹かれる曲
を挙げてみます。うまく分類するのが難しいものは曲名を並べるだけにしました。若い人々にはなじみがないものが多いと思います。
           

各国の民謡……バイカル湖のほとり、二つのギター、ともしび、帰れソレントへ、カタリ・カタリ、マリア・マリ、
           シェリト・リンドなど

シャンソン……… 枯葉、パダム・パダム、セ・シ・ボン、フル・フル、私の心はヴァイオリン、ラ・メール、
           パリの空の下など
タンゴ……… 碧空、真珠採りのタンゴ、ヴィオレッタに捧げし歌、ジェラシー、カミニート、ラ・クンパルシータ、
           淡き光に、エル・チョクロ、エル・クンバンチェロなど
その他……… 雪が降る、サン・トワ・マミー、涙のトッカータ、シバの女王、ある愛の詩、追憶、
          エーゲ海の真珠、オリーヴの首飾り、白い恋人たち、イェスタディ、マイウェイ、ブラジル、
          アマポーラ、ある恋の物語、マラゲーニャ、 シェルブールの雨傘、イン・ザ・ムード、
          秋のささやき、ライムライト、エストレリータ、スターダスト、二人の天使、ひまわり、風のささやき、
          黒いオルフェ、サウンド・オブ・ミュージック、禁じられた遊び、鉄道員など
60年代フォーク……遠くへ行きたい、見上げてごらん夜の星を、学生時代、四季の歌、若者たち、風、
          竹田の子守歌、ふれあい、帰らざる日々、白いギター

ポール・モーリアやレイ・フランシスの手になる曲が私にはピッタリとくるようです。シャンソンはイヴ・モンタン、タンゴはアルフレッド・ハウゼ、合唱はウィーン少年合唱団や木の十字架合唱団です。また以前のように音楽会にも出掛けたいのですが、朝型で深夜に弱いため帰りが深夜近くなることを考えると中々難しいです。

中学生時代は重音のハーモニカやアコーディオンが得意でした。やっとピアノを弾き始めたのは
20歳くらいからで、最初は耳で覚えたメロディを適当に鍵盤上で再生して楽しんでいました。しかし次第にそれでは物足りなくなり、適当な和音を伴奏に使うようになったのです。更に楽典を参考にしながらバイエルから練習を始め、ソナチネ、ソナタと自己流ながら進めました。と言っても、現在のようにピアノ教室などがある訳ではなく、音楽が好きだからこそ続けられたことは確かです。楽譜を次々に買い込んで弾いているうちに定番のピアノ曲だけでは何となく物足りなくなり、ヴァイオリン曲や交響曲を編曲したピアノ用の楽譜を探したり、ビートルズ、映画音楽、フォークなどの楽譜 (適度に手応えのある編曲のもの)を探すなどしました。ところが市販している楽譜はほとんどが子どもの練習用だったため、大人用のものを見つけるのはかなり大変でした。

こうして、私のピアノ技術は一応は身につきましたが、もちろん正式に習った人とは比較になりません。ポピュラー曲はともかく、クラシックの難しい曲は音符が飛んだり強弱が狂ったりは”朝飯前”でとても人に聴かせられる段階ではありません。しかし、たとえ本来の楽譜通りに弾けなくても、弾いている間はそれに没頭できますし、それで十分だと思っています。親の見栄の犠牲になった訳でもなく
自らの意志で、また自らの力でやり遂げたのですから。生まれたときから豊かさに囲まれて暮らしている人々から見ればバカなことをしてきたように思うかも知れませんが、どん底の時代から立ち上がってきた人間の一人である私にとって、好きな音楽を自分なりに表現できることは貴重な財産なのです。素晴らしいテクニックを持ちながら心の貧しいプロのピアニストよりも、たどたどしい演奏でも音楽が好きでたまらない人間の方が遙かに存在価値から言えば上だと勝手に思うことにしています。
      
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私が生きてきた時代 (戦前・戦中・戦後)

戦後70年を過ぎた今、あの戦争が日本にどのような影響をもたらし戦後の日本が戦前や戦中と比べてどう変わったかを知っているのは、実際にその時代を生きて戦争を肌で体験した私のような
80代半ばを過ぎた人間だけになってしまいました。敗戦を境にそれまでの國のシステムの大半が占領軍の命令によって強制的に変更され、それまでの日本に存在したものは根こそぎ捨て去られたのです。敗戦後の混乱の中では、捨て去るべきものと残しておくべきものを取捨選択する余裕など、最低限必要な食料さえ手に入れるのが容易ではない厳しい日々を生き延びるのに精一杯の当時の人々にはとてもなかったのでやむを得ないことだったかも知れませんが、その結果、それまでの(一般の)日本人の生き方の全てが否定され、自然との調和を大切につつましく生きる中で育まれてきた多くの美点までも、そのほとんどが価値いかんにかかわらずエイッとばかり惜しげもなく捨て去られてしまったのです。そして、私の目には必ずしももろ手を挙げて歓迎できるとは思えないモノカネ第一のアメリカ風の生き方をひたすら追い求めることが、多くの日本人の目標とされるようになってしまいました。

戦前の日本は軍備に国家予算の過半を費やして世界の列強に伍することを最大の目標としていました。そのため、一般国民の生活水準は特権階級を含む豊かな一部の人々を除けば決して高くはなく、文明国の中ではどちらかと言えば低い方に属していたように思います。当時の世界で図抜けて豊かだったアメリカと比較すれば文字通り天地の差と言っても過言ではありません。明治維新までの長い鎖国で後れを取った欧米各国に追いつこうと焦った日本は、以後の
國造りの基本を天皇を中心とする「忠君愛国」を精神的支柱とした「富国強兵」政策に求めました。そうした最終段階で、政治への影響力を強めたのち遂に政権を手にした軍部(特に国際事情に疎い陸軍)が、バランス感覚を失って暴走したあげくあの無謀な戦争に突入した時期に、ちょうど私の一度きりの人生が重なってしまったのです。多少の浮き沈みはあっても普通に考えられる生活を送ってこられた戦後生まれの人々に理解してもらうのはかなり難しいことですが、一度きりしかない貴重な人生をこうして根底から覆されてしまった私は、プロフィルにもある通りこのような国家の手になる重大犯罪に対する怒りが収まらず、ずっとその思いを胸にたぎらせて現在までの日々を送ってきたとさえ言えるのです。

戦禍で都市は至る所が廃墟と化し美しい山野に覆われていた日本が見る影もなくなってしまったのち、生活苦に喘ぎながら懸命に働いて復興に汗を流したのは私たちの世代ですが、このことは今ではほぼ完全に忘れられています。高度経済成長の立役者となったいわゆる団塊の世代が活躍できるための基礎工事をしたのが私たちの世代であるのにもかかわらず、ほとんど評価されないという空しい立場なのです。例の竹中氏などは絶えず「高齢者の増加が高額の医療費や年金など社会保障費を押し上げて国の経済を圧迫し、現役世代や若年層に大きな負担をかけている」と私たちの世代を標的に攻撃(口撃)55年体制下で繰り返されたその場凌ぎのばらまきや箱物行政など、未来への予見を欠いた選挙目当ての政治が本当の原因であることへの責任には全く言及しなかったのです。昨今大きな問題になっている少子化も、そしてもちろん高齢化もとうに予想できた筈なのに、長期の対策をきちんと立てずに、ひたすら自分たちの内輪もめや金脈探しにうつつを抜かしてきたのが自民党でした。こうしてstatesman (本物の政治家)ならぬ politician (党利党略に長け私利私欲を追求する政治屋)は、自分たちの政治の失敗を世代間の対立という構図に見事なまでに転嫁してしまいました。彼らの本心を推測すれば、私たちのような国の経済に貢献せずやたらカネを食う厄介者は、絶滅危惧種とは正反対の「絶滅期待種」なのでしょう。このように長年働いて社会を支えてきた人間を粗末に扱う「恩知らず社会」と化してしまったのはとても悲しいことです。

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 人生の終末期を迎えて 私の実践

今でこそ終活という言葉が一般的になり人生最後のまとめに目を向ける人々も徐々に増えてはいますが、私の場合はずっと早くからそのことに気付き少しずつ準備を進めていました。ただ単に年をとり弱って気力も体力もなくなって消えていくのではやりきれないという気持ちもあって、男性の平均余命である80歳に近づいた2007年頃から現実に終末期にある一人の人間としての活動を始めたのです。以下、順を追って私の実践を紹介します。
 
 墓地関係の処理
 
核家族化が進んでいる最近は墓地をどうするかも大きな問題になっています。私の場合はずっと市営霊園(永年使用)を借りていたのですが、思い切って2010年に駅近くの納骨堂を借りることにしました。家名の代わりに梓川河畔からの穗連峰の風景と大自然に身をゆだねる趣旨の詩を刻んでもらいました。伝統的な墓石のデザインへの抵抗感の他に、将来子や孫にも使えるようにという意味もあったのです。

 自分史作成のための資料収集
  
メディアが一挙手一投足を夢中になって取り上げる有名人ではなくても、
一人の人間が数十年を生きて過ごすことはそれなりに意味があることです。一生の間には様々な出来事がありそれぞれに対する喜怒哀楽の思いがあります。それらを自分なりにまとめてみたいと思い立ったのが自分史作りへのきっかけで、2009年頃から構想を練り始めました。

まず最初に取りかかったのは、自分自身や家族の写真を探して整理することでした。戦争に伴う疎開やら何回も経験した引越しなどで子どもの頃の写真は数える程しかなく、奇跡的に残っていた誕生直後の写真以外はごく限られた時期のものだけでした。それでも、それら
何十年も昔の色あせた古い写真をスキャナーで取り込み編集ソフトで加工すると、何とか見られるようになったのはとても嬉しいことでした。

次に手がけたのは、少年の頃を過ごした東京の街を歩き回ってゆかりの場所(旧住所や小学校、通学路、遊び場、父の勤務先など)を訪れてそれらの現在の姿をカメラに収めること、そして同じように疎開時に過ごした田舎のあばら屋や小学校、(旧制)中学校とそれぞれへの通学路の現在の姿などを撮影して、数十年前と比較できるようにすることでした。どちらの場合も、歩きながら遠い過去の出来事や情景などを思い起こすことが多く、懐かしい子ども時代に帰ったような気分に襲われることも少なくありませんでした。

また、各種の賞状や修業証書、卒業証書、通知表、旧制高等学校の受験票など残っているものは全て探し出してスキャンし自分史を書くための資料として使えるようにしました。更に、退職後に学んだ大学の単位修得状況一覧表と卒業証書・学位記、英語検定の合格証書、
TOEICの成績表、健康診断・血液検査のデータ一覧表(自作)など、学業関係と健康管理関係の全ての資料もスキャンしました。

国内、海外の旅行やハイキング、町歩き関係の写真や関連資料はその都度パソコンに取り込み編集してあるため、ほとんどはそのまま利用できるようになっていました。
 
 自分史「ハイマツの記憶」の編集と印刷、製本
 
自分史を作る場合普通は原稿を作ってからは全て業者に任せることが多いようですが、それでは自分の思い描く通りのものには必ずしもなりません。そこで、
写真や図表も含めて全てを自力で入力して編集し、更に印刷も使い慣れた自分のプリンターを使って行いました。こうすることで、写真や図表の配置も含めてページ毎の体裁を自分の好みに合わせることができますし、ページ替えも不自然にならないようきれいにできます。手間がかかり大変であることは確かですが、自分が描いたイメージで思い通りの印刷物が出来上がります。ただ、製本だけは業者にお願いしました。120ページほどになったので自分で製本するのは無理があり、わざわざ大きなホチキスを買っても他には使い道がなく無駄になってしまうからです。

原稿の作成には
ヶ月ほどかかりました。純粋理系の私のことで文章力には全く自信がなく、文章の吟味や推敲にはかなりの時間をかけました。難しかったのはやはりページ替えで、写真や図表と文章との位置関係、文の内容の切れ目などに気を配りながら無理なく自然な流れになるようにしなければなりません。もちろん、誤字や脱字にも目を光らせますが、ページ替えに関連して内容を変えずに表現を工夫し伸ばしたり縮めたりしてうまくページに収まるようにするのは中々難しいものです。

私の場合、自分史はどちらかというと娘たちよりも孫たちに読んでもらうつもりで書きました。戦争を全く知らず生まれながらにして物の溢れる時代に生きてきた孫たちに、
戦争というものがどれだけ人々を苦しめたった一度の人生を破壊する理不尽なものであるかは、実際に経験した私などの世代が是非伝えなければならないと思うのです。

因みに、自分史のタイトルは散々迷った末「ハイマツの記憶」としました。ハイマツは日本アルプスの
2500m以上の高所で、強風や豪雪に耐えて生息する強靱な植物で、このような自然環境のため人里離れた高山の斜面や稜線にへばりついてじっと耐えている植物です。その姿に人混みを避けて静寂を求める私の習性や戦前、戦中、戦後のつの時代を生き抜く間に様々な困難をくぐり抜けてきた私の人生との共通点を見いだせるように感じたのです。

内容は前編と後編に分けてありますが、それぞれの項目は次のようにしました。

「前編」 =激動の時代の波に翻弄された人生を振り返って=
   @系譜(簡単な家系図)   A先祖と家族、親類縁者のこと   B 戦前と戦後の学校制度の比較
   Cこの世に生を受けてから東京を去るまで    D不本意な田舎暮らしの始まりから小学校卒業まで 
   E旧制中学校入学から日本の敗戦まで    F日本の敗戦から中学校卒業まで 
   G中学校卒業直前の悲劇(父の死)      H小学校から中学校までの学業関係の証書等 
   I○○○○世界に生きた42年 ← (在職中の記録)

「後編」 =退職後の生活を充実させた活動を振り返って=
   J人間らしく生きるための健康管理   K学問の世界への回帰・放送大学   L英会話能力の強化
   M科学技術の成果の活用       N音と映像の世界(音楽への傾倒、映像メディアの活用) 
   O自然との対話を求めて(登山、トレッキング、ハイキング) 
   P〜S退職後の旅(日帰りのハイキングと軽登山、日帰りの町歩き、泊まりがけの国内旅行、海外旅行)

Bは、特に
「中学校」と「高等学校」が、戦前戦中と戦後では名称が同じでも年限や中身が全く異なるので、混同して受け取らないように設けました。また、O〜Sは、現在のホームページに掲載している画像からそのごく一部を抜粋したものです。

こうして出来上がった「ハイマツの記憶」は、今はまだ孫たち(高
,高,小)には時間がなかったり読むのが難しかったりでしょうが、やがては少しずつでも理解してもらえることを期待しています。

また、これとは別に
「別冊」(全16ページ)として、戦争に関わる世の中の実態と変化を一覧表にまとめて孫たちに与えてあります。戦前から戦後に至る激動の数十年間を「太平洋戦争の開戦まで」「太平洋戦争中」「敗戦直後の数年間」「平和条約締結後」とつに分けて、それぞれの時期の日本社会の姿を背景とともに比較できるようにしました。今ではもう孫たちに歴史を教える先生方も戦前から戦後への実際の姿は知らず、単なる表面的な知識の伝授になりがちではないかと考えたのが、この別冊を作った目的です。

前書きとして、「私が生きてきた時代」「戦争、愚かな人類のやめられない愚行」「太平洋戦争に関して」「全体主義と個人主義」「歴史認識についての尽きない疑問」をまとめ、そのあとに上記の
つの時代の比較を「国の体制と政治状況」「産業と経済の状況」「軍備と戦争の状況」「一般国民の暮らしの状況」「家庭・家族と地域社会の状況」「子ども社会の状況」「子どもの教育環境」「モラルと治安の状況」のそれぞれの観点からできるように、実際に見たり聞いたりした具体的な事実とそれに対する私の思いを加えて箇条書きで示しました。
     
 「終着駅への道しるべ(あとに残る者のための備忘録)」の作成
 
いまなお死に関する話題に触れるのを嫌う人が多いのは事実ですが、私には全くそのような気持ちがありません。人間にとって死は避けることのできないことであるので、財産の有無にかかわらず生きている間、それも元気なうちに、あとに残る者たちが困ることのないよう周到な準備をしておく必要があると思い、「終着駅への道しるべ」と題する冊子を作りました。2007年に最初の冊子を作り、以後は変更箇所があるたびにその部分を修正する改訂を行ってきました。

内容は、土地家屋の権利証はもちろん、年金関係、健康保険関係、民間の生命保険や損害保険、預金関係、その他の重要書類のそれぞれについて、種別や番号、取り扱い会社や代理店など連絡先、その他のデータの詳細を記入してあります。それらの書類等の所在もはっきり分かるように書き添えておきました。 常時身に付けているもの、非常持ち出しリュックに入れてあるものなどに分けてあります。

「遺言書、尊厳死宣言書」の作成 
 
財産と言えるほどのものはない一庶民ですが、一応遺言書を作りました。自筆で形式を守り日付や押印のほかどんな点に注意すべきかを調べてから書きました。

今の時代、かなり大切になるのは尊厳死宣言書だと思います。たとえ植物状態になっても積極的な手段で患者を死に導くことが医師には許されていない以上、何らかの形で本人の意志が明確に示されていることが必要です。私の従妹の中にも、姉が脳梗塞からやがて植物状態になってもそのまま入院を続けさせるほかなく、点滴等で栄養だけは補給されるため本人には全く意識がない状態にもかかわらず年間生き延びた例があります。このような姿が果たして人間の尊厳を維持していると言えるのかどうか非常に疑問を感じます。また、医学の進歩とはこのようなことのためにあるのかどうかも・・・。

そこで私は、正式な書式を調べた上で尊厳死宣言書を作りました。強調点は簡単に述べると次の
つです。
    @私が病で重篤な状態になり回復の見込みが全くない場合は、単なる生命維持のための治療はせず苦痛を軽減するための処置のみにとどめること。
    A私が植物状態に陥ったときは速やかに生命維持装置を取り外すこと。

本人の意志がこうして明確に示されていれば、残された者たちも(そして医師たちも)決断がしやすくなるでしょう。

「 死後に必要な処理事項とその手続き」の作成
 
一人の人間が亡くなったあとその人に関わる様々な事項の処理をどのようにするかは残された者にとっては決して簡単ではありません。「夫が亡くなったが、何がどこにあるか全く分からなくて困っている」というような話はよく聞きます。そうしたことのないよう、
何をどんな順序で行わなければならないか、その際はいつまでにどんな手続きをどこでするのかなどをできるだけ具体的に細かく示しておくことが必要です。私の場合は次のような内容になりました。

先ず預金の引き出しと葬儀社への連絡 、死亡届の提出、関係者への死亡通知、年金支給機関(元勤務先関係と厚生労働省年金局)への死亡届け出、口座からの自動引き落としの停止届け出(私の場合はインターネット関係とスマホ関係、保険関係)などが緊急を要するものでした。あとはさほどの緊急性がないもので、死亡保険金の請求、公的証明書等の処理、土地家屋の名義変更などです。

「死後の処置に関する希望」の作成 
 
私自身としては当初は医学の進歩に貢献するよう献体を考えていましたが、色々と調べた結果不適当なことが判明して断念せざるを得なくなりました。しかし、死後の処置についてはいくつかのこだわりがあり、それを文書の形にして残すことにしたのです。内容は、基本的な考え方と具体的な手順やそれに伴う諸々の事柄になります。

まず、
基本的に無宗教の立場に立つことが最も強い希望です。今やほぼ完全に”葬式仏教”と化したことへの反発から、仏教に関係することは極力避けることを特に強調しました。葬儀はできるだけ簡素に内輪で行って会葬も香典のたぐいも一切辞退し、知人にはあとから葉書で知らせることにしてあります。

具体的な手順は時系列で示しましたが、それを作る前に
数回は葬祭業者と打ち合わせて細かい部分まで確認を済ませてあります。当の本人が細部にわたって質問するのに先方は当惑していましたが、私にとっては何の不思議もない至極当然のことなのです。死は不吉なことではなく全ての人間の終着駅なのですから。

打ち合わせで確認したのは、祭壇の種類、霊柩車の車種をはじめとして骨壺のような細々とした物品の選択、式場設営の形、式次第(流れと担当者、内容)等で、
全て私自身が考えたプランを示して業者の了解を得たのです。BGMも私が作ることにしてあります。

位牌は作らず写真を飾ればよいと思います。また、仏教でよくある追悼行事は一切望まず、適当な日に集まって食事会でもする方が有意義だというのが私の考えです。

最後に遺品の処理についての希望を書きました。機器類や様々な資料、書籍等の中には十分役立つ物が少なくないので、無駄にならないようにということに尽きます。 


こうして
最近やっと話題になってきた「終活」を終えてみると何かをやり残した感じがなくなったような気がします
「これからはいよいよ本当の老後だ」という気持ちになり、何ものにも縛られず安心して自由に行動できます。 

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