無名人の独り言
メールコーナー

このページには、私が日頃思うことを
随時書きたいと思います。
  
各項目へ     無名人の独り言 71 (前のめりのデジタル新技術に感じる不安)
  無名人の独り言 70 (悪夢の根源、ツイッタープレジデント)
  無名人の独り言 69 (哲学を失った浮き草の行く末を憂える)
  無名人の独り言 67 (データから見る日本の自動車事情)
  無名人の独り言 66 (“非国民”の目から見る改元騒動)
  無名人の独り言 25 (戦争とは無縁と思い込んでいる人々に)
   
   私のホームページ作り            
    メールコーナー (感想・意見をどうぞ) 


※ わざわざ「無名人」としたのは、有名人の言動にのみ過度に反応する世の風潮への大きな疑問からです。



無名人の独り言 71  (前のめりのデジタル新技術に感じる不安)  (2019.8.2)  

町中でも乗り物の中でもスマホの画面に集中している人々の姿を目にするのも、最近ではもう珍しくなくなりごく日常的な風景になりました。あらゆる情報を即座に取得できるばかりでなく、通話やメールはもちろんデータ保存や目的地への案内まで引き受けてくれるスマホという名のハンディコンピューターの便利さは、これが出現する前と比較すれば正に天地の差です。ただ、所構わず画面を覗きながら動いて人々に迷惑をかけたり、匿名を隠れみのに人をおとしめる卑劣な投稿をする行為は、折角の利器の存在価値を大きく損なうもので絶対に許してはならないことです。。

スマホに続いて
脚光を浴びるようになったのがドローンとAIです。小型で安価、空を自由に飛び回ることができるドローンの未来は果てしないようにも思います。しかし、またしてもこれを軍事面で利用しようとする動きが出てきました。昔から人類は、何か新しい技術が生まれると必ずそれを武器に転用することに熱心に取り組むのが常でした。悲しいことに、新技術は武器に使われることで大きく進歩したということも事実なのです。今ドローンによる宅配の実験が行われていますが、これも将来大規模に実施されるようになれば車の場合と同様に事故や規制違反などによる問題も起きてくることは必至です。

AIに至っては更に深刻な問題をはらんでいます。“人工知能”に組み込まれる大量のデータも基本的には人間が与えるものであり、そのデータの選択基準によってAIの“行動パターン”にもある種の個性が生じてくるでしょう。そこにもし「悪意」が存在すれば、それに従うAIは何らかの災厄をもたらすことになります。その究極の姿が軍事的に利用されるAIです。現にアメリカをはじめその研究が進んでいると聞きます。現在ですら、発射ボタンを押す人物は遠隔の地にいながらミサイルによるピンポイント爆撃をすることが可能です。このような判断をAI自体が行うようになれば、いつの日かAIが人類を敵と見なして攻撃することさえも決して夢物語とは言い切れません

物事には必ず表と裏の二面があり、科学技術の発展もその例外ではありません。戦後の数十年間に普及した家庭電化製品が、それまでの過酷な家事の負担を大幅に減らしたのは事実です。しかし、その後次から次へと創り出された製品の中には「何もそこまで・・・」と疑問を生じさせるものがなかったとは言えないような気がします。確かに便利ではあり手間を省いたり楽しさを感じさせたりする面は否めませんが、その一方では人間の創意工夫など考える力をそいでしまう働きがあります。何でも機器に頼らないとできない状況を招くのは、将来に一種の不安を感じさせます。

スマホにも手放しで喜べない一面があります。一番気になるのは「本人が興味を持つ情報にしか触れなくなりがちなこと」です。検索の段階で選択するものが好きなことだけに限定されるのは、確かに自然ではあっても反面大きな心配をもたらします。そのいい例が「若者が政治への関心を持たない」ことです。諸外国と違い日本では一般に「政治は身近なことではなく別世界の出来事」と思っている人々が多く、特に若者はそうした傾向が強いように感じます。これはとても怖いことなのですが彼ら自身はほとんどそうした実感がなく、ひたすらSNSやゲームに集中しているように見えます。最近は車に乗れば専らカーナビ頼りで移動するため、地図を広げる機会は以前と比べて激減しているようです。でも、日本地図や世界地図に盛られた無限の情報を見通すことができなくなっては、とてももったいない気がするのです。

私が
一番問題だと思うのは、「何でも便利に苦労なくできるようになる」=「(脳も含めて)身体を使わなくなる」ことです。原人からの進化の過程で失ったり衰えたりしたものはいくつもありますが、逆に大きな発達を遂げたものもあります。脳がその代表格であることは間違いありません。その反面、「聴く力」や「匂いを嗅ぐ力」は、厳しい生存競争の中で磨き上げてきたであろう動物たちとは雲泥の差になっています。このように「使う部分は発達し、使わない部分は衰える」のです。感じたことや思い付いたことを実行に移すときも、そこには必ず考えたり判断したりする瞬間が存在するはずです。しかし、必要以上に「手取り足取り」の便利過ぎる道具に囲まれた暮らしを長年続けることで、人間の貴重な財産である考える力の摩耗をもたらし兼ねないようにも思うのです。ついでに言えば、このことは知力に関してだけではなく身体機能についても同様で、「楽に楽に」と第二の心臓である脚を甘やかす生活を長年続けた結果、高齢になってから満足に歩けず苦しんでいる人々の姿が実証しています。

直近の出来事で
7pay の問題がありますが、私に言わせれば起こって当然という感じです。セキュリティ対策の不備は別としても、このような「簡単で便利なシステムには必ず落とし穴がある」というのが私の見方です。(旧制)中学校時代の物理の先生から教えられた「何事も頭から信じ込んではいけない。必ず“これは本当か?”と疑問を持ち、自分自身で考え判断するように」が、骨の髄までしみ込んでいるため、日常生活でもこの思考様式が習慣化しているのです。指先一つで打ち込んだ情報が瞬時に全世界に伝わってしまうネットの世界では、いつどこから悪意の侵入があっても不思議ではありません。だからこそ、キー一つでも警戒心なく押してはならないのです。とうに終末期に達している年齢のせいもありますが、私はクレジットカードとはだいぶ前に絶縁しました。買い物をしてから実際に引き落とされるまでの「借金状態」が心理的に負担になる上、預金と直結するクレジットはいつ攻撃対象になるか分からないからです。だから、ネット通販でも宿泊先の選択でも現金払い限定です。現金は目に見えるので支出の抑制作用もあり、その場で売買取引が完結するので安心できます。いくら世界で広まりつつあると言われても、現在よりも更に悪意の跳梁が激しくなるであろうキャッシュレス社会など真っ平ご免です。電子の世界は大きなメリットと同時に大きなデメリットも抱え込むのです。往々にしてメリット面しか見ようとしないのが人間の習性である以上、技術の発達が即文明の進歩とは言い切れないのです。

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無名人の独り言 70  (悪夢の根源、ツイッタープレジデント)  (2019.7.27)  

アメリカ合衆国建国の理念を否定するような言動、それも重大案件までもツイッターで発信する軽々しい手段に終始して自国民の分断にせっせと励むあの大統領は、同時にかろうじてバランスを保ってきた世界に対しても力(軍事力)を背景とした脅しを武器に様々な分野での理不尽な挑戦を続けています。数十年前とは違い、今やどこで何が起こってもその影響がたちまち全世界に及ぶ時代です。巨大な人的資源を持つ中国の追い上げに焦っているのか、まるで幼児のようなわがままを平然と続ける浅ましさには呆れ返るばかりです。

年を追って激しさを増している地球温暖化の影響は、経済界などが懸命に否定してきたにもかかわらず今では疑いを挟む余地がないものとなっています。異常な高温、過去に経験のない集中豪雨、海水温の変動に起因する台風などの発生と進路の異常はここ数年経験済みの事実です。そして南北両極での氷の融解やヨーロッパアルプスはおろかヒマラヤですら歴然としてきた氷河の後退は、近い将来南太平洋の幾つもの島国の水没を招き兼ねません。その場合は当然、先進各国で造成されてきた埋め立て地はもちろん、元々標高の低い土地も同じ運命に曝されます。遅まきながらこうした危険に気付いた人類が、温暖化の進行を遅らせるためにやっと結集して取り組もうと決定したパリ協定から、自国の経済に悪影響を及ぼすからという身勝手な理由を元に脱退したのも彼です。鳴り物入りで始めた北朝鮮との交渉も、実際は朝鮮半島の非核化のためと言うよりは来年の予備選挙、ひいては次期大統領選挙での勝利を目的とするデモンストレーション
だったようにも見られ
ます。

東西冷戦の終結後最も画期的な出来事の一つである
レーガンとゴルバチョフによって結ばれた「INF=中距離核戦力全廃条約」は、軍事的優位を維持したい両国の画期的な決断によるものでした。これが地球上から核を無くすための第一歩であったことはまぎれもない事実です。しかし、アメリカに生まれた愚かな暴君はいとも簡単にこの重要な条約からの離脱を決め、世界を再び核開発競争の場に戻してしまったのです。

そして、
とうとう今回のイランに対する強硬手段です。紆余曲折を経てやっとまとまっていた核合意を破棄して再び緊張状態をつくり出し中東地域をまたまた戦禍の巷に戻そうとするのは、誰が見ても愚か極まる行為と言えます。原油のほとんどを中東に依存する日本にとってはこの上なく迷惑な行為ですが、あのミニトランプはどう対処するのでしょうか?「ホルムズ海峡を通過する船舶は自国で守れ」とのたまうトランプに対しての返事は、その内容によっては大問題になります。もっとも、あの独裁者はこれが自衛隊を海外で公然と活動させられる絶好の機会ととらえているかも知れません。卑怯極まる手段を弄して強引に通した安全保障関連法の改定は、このような事態への対処のためにされたのだという信念を持っているでしょうから。更に、つい最近提唱された「有志連合」にもし参加すれば、長年にわたって日本が築いてきた中東の大国イランとの友好関係はたちまち崩壊します。「アメリカを取るか、イランを取るか!」というのがトランプ一流の脅しであることはもちろんです。

現在も続いている
中国に対する貿易戦争も、参議院選挙が終わった今ではいつ日本を標的にしてくるか分かりません。アメリカ国内の企業にも少なからず悪影響を及ぼしているのにもかかわらず、彼は一向に中国との関税上乗せ合戦を取りやめようとはしません。要するに、彼の頭の中は「大統領の地位をどんな手段を弄しても守るのだ」という個人的欲望でいっぱいなのです。このような人物が事実上世界を支配できる立場を占めている訳で、これこそ人類が負わされた災厄の最たるものと言えます。

彼が登場した時期に重なるように、世界各地でおよそ政治を司るに相応しいとは思えない良識を欠く人物が次々に大統領や首相の地位を占めるようになってきました。昨日は遂に民主主義の草分けであるイギリスでも、我意を色濃く押し出す人物が首相に選ばれたようです。この先、世界は一体どうなっていくのでしょうか?
欲望に起因する暴力が良識を駆逐してまた懲りない戦乱がやってくるのでしょうか?過去の歴史がその繰り返しであったように・・・もしそうなら、今度こそ人類は破滅です。

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無名人の独り言 69  (哲学を失った浮き草の行く末を憂える)  (2019.7.27)  

最近の日本社会は哲学をほぼ完全に失っているように感じられてなりません。ただし、私がここで言う哲学は、一般に「難しくて分かりにくい理屈だけの日常生活には無縁な学問」と思われているゲーテや三木清などの名前が登場する哲学ではなく、「人間社会を人間に相応しい姿で維持するために根幹となるべき精神的な主柱」とでも表現できるものを指し、日常の様々な行動を目に見えない形で支える精神的なバックボーンのことです。

現代日本人の行動様式を支配している最も強力なものは、金銭の出入りに関係する損得勘定のように見えます。もちろん、まともに生きていくためには、ある程度までの損得勘定が必要不可欠なことは当然です。だからこそ、人々は収入の多寡に一喜一憂し、税金や保険料、食料品や衣類、交通費や通信費その他多くの支出項目の増減には敏感になり、それらが互いに関連する物価の変動には高い関心を示します。しかし、こうした傾向が長年にわたり強く働き過ぎたため、車社会化とあいまって大規模なチェーン店の進出は地価の安い郊外に集中するようになり、徒歩や自転車で行くことができた地元の個人商店は安売りが難しいため次々に姿を消して、地方都市では中心部でさえシャッター通りが増えて軒並み衰退が進んでいます。その結果、高齢者など移動手段の乏しい人々は買い物をはじめとする日常生活のための必須な行動さえ極めて不自由になってしまいました。

企業の場合でも損得勘定は当然必要ですが、これが行き過ぎた結果は様々な業界での不祥事の増加につながっています。儲けを重視するあまりの作業工程の手抜きや報告文書の改ざん、顧客を騙すやり口の横行、納めるべき税金の申告漏れや過小申告など、最近は名だたる大企業でも珍しくなくなりました。その中でも最悪の振る舞いは(自民党政権の主導によるものですが)「従業員の生殺与奪の権利を全面的に企業が握ってしまった」ことです。その結果、企業側の都合だけで採用も解雇も自由にできる非正規社員の激増をもたらし、その日暮らしさえままならない不安定な生活を送る人々を大量に生み出し、とりわけ若者の将来を希望の見えない暗いものにしてしまったのです。このことが日本という国の先行きにどれほど悪影響を及ぼすか、計り知れないものがあります。更に加えて、研修生を含めた外国人労働者に対する差別的な扱いは、今後の人手不足を補ってもらわなければならないことを考えれば絶対に見逃すことのできない問題です。法令違反の長時間労働や低賃金、補助金等のごまかし等、いまだに勤勉で正直と評価されている日本人への見方を大きく変えてしまうことにもつながり兼ねません。

私は
人がまともに生きていく上では、「これだけは絶対守る」と「何事があってもこれだけはしない」という二つの信条が不可欠であると思います。例えば、「他人を不快にさせるような言動はしない」だけでも日常生活全般にわたる一つの行動基準となり、あらゆる場面で自分を律することになる有力な「人生哲学」と言えます。これは企業などの組織でも同じことであり、企業に与えられた「社会的責任」を具体化する中で「経営哲学」や「労働哲学」と呼べるものが存在しなければならないことは明らかです。頻発する組織や個人による不祥事や事件の背景には、こうした意味での「哲学」の欠如があると思うのです。日本人が純朴だった頃の表現を借りれば、「お日様が見ている」という意識が消滅してしまったとしか思えません。
   ※ 「お日様が見ている」は子どものしつけでよく使われた表現であり、「人が見ていようと、まわりに誰もいなか
     ろうと、人として恥ずかしいことは決してしてはいけないよ」という意味です。

現在このような点で
最も欠陥を感じさせられるのが「政治」です。本来は国民一人一人が心身両面で幸せを感じられるように行われるのが政治であり、そのために代表として選ばれた議員たちであるはずですが、実態はそれにはほど遠く彼ら自身の身分保全や立場と権威を笠に着た利益追求が第一の目的のように見えてならないのです。選挙のときだけは平身低頭の姿を見せながらその場限りの「釣り餌」にも等しいごたくを並べて選挙民を騙し、一旦当選するやいなや意味不明のバンザイを連呼、あとは「俺様は偉いんだぞ!」とふんぞり返って、次の選挙までは安泰とばかり議場でのほほんと時を過ごすだけで年間数千万円の税金を食いつぶすお気楽なご身分の「選良?」が少なくありません。中には議員としてはおろか人間としても低次元な輩も増え、大きな責任を負う立場にいながら尊大な態度に終始する見るからに吐きけを催す組長もどきの居眠り専門家までいる始末です肩書きが人間の価値を表さないことの見本に相応しい自民党の「魔の三回生」が上にならって威張りくさり秘書や運転手をいびるなど、恥知らずの大馬鹿者です。

こうした傾向に拍車を掛けたのがあの人物、世界の厄介者と化した史上最悪のあの大統領にべったりの忠実な飼い犬です。歪んだ選挙制度のお陰で得た絶対多数に「この世はわがもの」とばかり奢り高ぶって、内閣府をお気に入りとイエスマンで固めて批判派や官僚の口も行動も封じ込め、霞ヶ関を萎縮と忖度の巷に変えてしまいました。神聖なはずの国会、与野党問わず真剣に議論を重ねるべき本会議の場でさえ薄ら笑いを浮かべながらごまかしや強弁を繰り返し、メディアの扱いにもあからさまな差別を持ち込んで批判的な質問は平然と遮ります。彼を筆頭に、
現在の政治家には「政治は国民の幸せのためにすべきもの」という最も基本であるべき認識、つまり「政治哲学」が完全に欠落しているのです。しかも世襲議員の増加にも象徴されるように政治が半ば富裕層の専有物化しているため、庶民の暮らしへの認識など期待するだけムダというのが本当のところです。

一方では、
人生経験が浅いため社会の仕組みに疎く、物事の裏に隠された真相への洞察力も弱い若年層を甘言で釣って、自らの思いを遂げようとしている彼の勝ち誇った顔を見るたびに、「もはや戦後ではない」に続いて「決して夢ではない破局へのプレリュード」が奏でられ始めているような気がしてなりません。彼の忠実なスポークスマンが後継になりそうだと聞くに及んでは、尚更そのように思います。

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無名人の独り言 67  (データから見る日本の自動車事情)  (2019.6.14)  

鉄道や航空機など他の交通機関に比べて桁違いに多い自動車事故での死者数
1970年度の16765
人をピークにほぼ減り続け1996年度に初めて10000人を割ったのちは不思議にも2年毎に千の位が減少するという珍しい経過を辿って昨年度は過去最少の3532人になりました。しかしそれでも、これだけの人命が失われるだけでなく、死者一人一人に関わる家族や知人など周辺の人々の生活環境を心理的、経済的、場合によっては物理的にも激変させてしまうという重い事実は、軽視してよいものではないと思います。

一昨年に起きた
東名高速道路でのあおり運転事故は、子どもたちの目前で両親が命を奪われるという悲劇的な状況に圧倒的多数の人々の怒りが爆発し、これを契機に事故原因と適用する罪の関係が議論になり、以後の同種犯罪に対する裁判での対応にも影響が及ぶようになりました。

ここでは、このような
自動車事故の起こりやすさ(起こりにくさ)の原因の一端になるのではないかと思われるデータを、欧米各国との比較の形で示してみました。可能な限り新しいデータを用いましたが、部分的にはやや古いものや概数のものも含まれています。

表中に示されている
「可住地」とは「居住が可能な地」、つまり「人間が(特別な装置や装備を必要とせず)普通の状態で住むことのできる土地」を言います。

 
   面積 (km2)
  ・総面積
  ・
可住地面積
   と総面積比


 人口(万人)

 人口密度
  (/km2)
   ・全国
   ・
可住地   
 車の保有台数
  ・総数(台)
    ・
乗用車
   ・
トラック・バス


 人口
 100人当たり
   保有台数

  総数
  ・
乗用車
  
・トラック・バス
 面積
 1km2当たり
  保有台数

  総数
  ・
乗用車
  ・
トラック・バス
 可住地面積
 1km2
当たり
   保有台数

  ・総数
  ・
乗用車
  ・
トラック・バス
日  本  377972
 114622
  30.3%
    
  12748
   337.3
  1112.2
 
 77750520
 61403630
 16346890
 
  60.99
  48.17
  12.82
 
  205.7
  162.5
   43.2
 
 ★678.3
   535.7

   142.6
 
アメリカ  9525067
6103372
  64.1%
   
  32446
    34.1
    53.2
 
270566332
123552650
147013682
 
  83.39
  38.08
  45.31
 
   28.4
   13.0
   15.4
 
 ★ 44.3
    20.2

    24.1
 
ド イ ツ   357121
 237810
  66.6%   
   8211
   229.9
   345.3
 
 49286000
 45804000
  3482000
 
  60.02
  55.78
   4.24
 
  138.0
  128.3
    9.8
 
 ★207.2
   192.6
    14.6
 
   面積 (km2)
  ・総面積
  ・
可住地面積
   と総面積比


 
 人口(万人)

 人口密度
  (/km2)
   ・全国
   ・
可住地
  
 車の保有台数
  ・総数(台)
    ・
乗用車
   ・
トラック・バス


 
 人口
 100人当たり
   保有台数

  総数
  ・
乗用車
  
・トラック・バス 
 面積
 1km2当たり
  保有台数

  総数
  ・
乗用車
  ・
トラック・バス 
 可住地面積
 1km2
当たり
   保有台数

  ・総数
  ・
乗用車
  ・
トラック・バス
 
フランス   551500
 387640
  70.3%
   
   6498
   117.8
   167.6
 
 39118000
 32390000
  6728000
 
  60.20
  49.85
  10.35
 
   70.9
   58.7
   12.2
 
 101.0
    83.6
    17.4
  
イタリア   301336
 201870
  67.0%
 
   5936
   197.0
   294.1

 42699954
 37876138
  4823816
   
  71.93
  63.81
   8.13
 
  141.7
  125.7
   16.0
 
 211.5
   187.6
    23.9
 
ス イ ス    41277
  27554
  66.8%
  
    848
   205.4
   307.8
 
  4999271
  4524029
   475242
 
  58.95
  53.35
   5.60
 
  121.1
  109.6
   11.5
 
 181.4
   164.2
    17.2



 T 各項目ごとの、日本と他のヶ国との比較 

  @ 
国土の総面積に対する可住地面積の割合が、日本は他の5ヶ国の半分以下
  A 
国土全体の人口密度
アメリカの10倍、フランスの倍、他のヶ国のおよそ1.5
  B 
可住地の人口密度
日本が群を抜いて高く、アメリカの20倍、他のヶ国の倍以上
  C 人口100人当たりの車保有台数は、ドイツ、フランス、スイスと同程度でイタリアよりやや少なく、アメリカ
     の70%

  D 
国土面積1km当たりの車保有台数日本が極めて高く
アメリカの倍、フランスの倍、ドイツ、イ
     タリア、スイスのおよそ
1.5

  E 
可住地面積1km当たりの車保有台数日本が群を抜いて高くドイツ、イタリア、スイスの倍以上、
     フランスの
倍近く、アメリカの15


 U Tの結果から分かる日本の自動車事情の特殊性

  @ 広大な国土を持つアメリカは別格として、
日本とほぼ似た面積を持つドイツやイタリアに比べて可住地の
     人口密度が
3倍以上という事実は、日常生活の範囲で人の存在を感じる度合い3倍以上というこ
     と
になります。しかも、実際は人口の偏在が進行している現在では大都市周辺での混雑が尋常ではな
     いこと
を意味しています。
  A 
人口100人当たりの保有台数にはさほどの差はないものの。早くから車中心社会であるアメリカがやや
     多くなっているのは至極当然のことでしょう。
  B 
問題は単位面積当たりの車保有台数です。国土全体で見ても、自動車産業の先輩であ
     るドイツやイタリア、フランスを遙かに凌ぐ数値
を示していますが、最も実態をよく表すのは表の「可
     住地1km当たりの保有台数」
であり、その異常な多さは日本の自動車事情の特殊さを
    表す
ものだと思います。可住地、つまり「人が生活の場として活動している地」に存在する
    車の台数
が、アメリカの15倍
それ以外の国々の3〜7倍もあるのです。ごく単純に計算す
     れば
38m四方の土地に一台」の割合で車があるということです。しかもこれは住宅など
     も含めた面積なので、
実際はもっと狭い土地を一台の車が占領していることになります。
    都市も地方も含めてこの数字になるのは驚くべきこと
ではないでしょうか?

 V 交通事故の多発を招く諸々のこと

  @ 日本で自動車事故の多発を招いていると思われる要因の第一は、何と言っても、前項のBに示されたように
    
「人が生活の場としている土地=可住地」当たりの車の数が際立って多い」ことに
     尽きます。国土が広大なアメリカは別として、ヨーロッパ各国に比べて生活圏の車の台数が3〜7倍も多いの
     では
自動車事故が起こらない方がむしろ不思議と言ってよいでしょう。
  A 高速道路などの自動車専用道路を除けば、大都市以外の地域での
一般道路は概して道幅も狭く、歩
    道の設置されている区間は限られて
います。また、歩道はあっても歩行者の安全を確保するためのガードレ
     ールがなかったり、電柱などの障害物で安全な歩行が難しい箇所も少なくありません。
車道は平坦でも歩
    道は工事の後始末さえ不十分で凸凹だらけ
というのが実態です。結局のところ、日本では人命の保護
    よりも自動車交通の円滑さを優先させるのが常識となっている
ように見えます。このことは
     自動車事故での死者のうち歩行者の占める割合が日本は36%であるのに対し、アメリカやヨーロッパ
     諸国では15%程度
であることにも現れています。

     国交省の役人は「自転車は路側帯を走れ」と言いますが、彼らが実際に走ってみたかどうか聞いてみたいもの
     です。平坦でない路側帯を自転車で走ることがどれほど危険かなど、彼らはとんとご存じないのです。
  B 
交通ルール遵守の意識が希薄な運転者の増加も目立つようになっています。交通法規に盛られている
     のは他の運転者や歩行者のために最低守るべきもの
ですが、それすら無視して事故を誘発する例が後を
     絶ちません。東名事故のような悪質な場合は別としても、
日常的に行われているルール違反の中には幾つ
     か無視できないものがあります。特に目立つのは次の二つです。
    ○ 
適切な車間距離の確保がほとんどされていないように思います。あおり運転のような犯罪
       的な行為は別ですが、一般の運転者でもこの点についてはあまり深く意識していないではないでしょうか?
       しかし
事故が起こる度に必ずと言ってよいほど付随する「玉突き衝突」の根本原因がこの点にある
      ことは明らか
です。制動距離(ブレーキを踏んでから停まるまでの距離)は(速度)に比例する訳で、
      速80kmの場合の制動距離は時速40kmの場合の2倍ではなく4倍になる
のです。車間距離を適切に
       取っていれば事故も起きずスムーズに走れるのに、先を焦って車間距離を詰めた結果事故に巻き込まれ
       て命の危険や時間のロスを招くのは、バカげているのではないでしょうか?
    ○ もう一つ見過ごせないのは
ドライバーの歩行者を優先させる意識が非常に薄いことです。
       特に、信号機のない横断歩道を歩行者が渡ろうとしても、停まってくれる車は
1/10程度に過ぎません。
       つまり
日本の運転者の心には車優先の意識が根強く植え付けられているのです。
       ヨーロッパの街を歩いた経験のある人ならば分かると思いますが、このような光景はほとんど見られません。
       あの万事大ざっぱなイタリアでさえもです。
  C この他にも
事故を誘発しがちな事柄が幾つか考えられます。それらを列挙してみると、次のようになります。
    ○ 
緊張感を欠いた運転の横行…ながら運転に見られるような「車は走る凶器」であることを忘れた運転
    ○ 
車の構造上の問題…物理的な安全性を無視してフェンダーミラーをドアミラーに変えてしまったメーカ
       ー(
実用性よりも外観のスマートさなどを重視する傾向)
       タクシーがフェンダーミラーを採用しているのは何故かを考えてみれば歴然としている。
    ○ 
オートマティック車そのものが欠陥車…運転者の手数を省いたことが危険を招いた(絶えず前進しよう
       とする構造)→「楽なことが最高」という認識が間違い
       たとえ信号機のある横断歩道でも、エンジンのかかった車の直前を横断するのは非常に怖いのです。

 W ヨーロッパ諸国と日本との交通事情の違い 

  @ 敗戦後、日本人の多くはアメリカ人の豊かな生活に憧れてひたすらその後を追ってきました。白黒TV、洗濯
     機、冷蔵庫に始まった「三種の神器」も、高度成長期にはカラーTV、クーラー、自家用車の3Cに変わっ
     たのです。人間が豊かさを求めるのはごく自然な姿には違いありませんが、
問題は「日本とアメリカの大きな
    国情の違い」
です。上の表からもはっきり分かるように、国土の広さや人口密度、とりわけ可住
   地の状況が極端に違い
ます。国土全体の人口密度はアメリカの10倍、可住地に限れば20
    倍以上
です。そこに乗用車に限ってもアメリカの半分の車が走っている事実を見れば、それがどれほど異
    常なことかは誰でも分かると思います。
可住地に存在する乗用車の密度はアメリカと比較
   すれば何と25倍以上
なのです。どんな狭い路地にも車が入り込んでくる様子は、とても正常とは思
     えません。
  A ヨーロッパ諸国と比較してみると、日本の特殊性が更に際立って見えます。
国土面積が似通ったドイツや
     イタリアでも、可住地の車密度は日本のほぼ1/3であり、やや広いフランスの場合は日本の1/6以
    下
です。車密度の高さが事故の可能性を大きくすることは十分考えられる以上、ここでも日本の車密度、
    言い換えれば「感覚的な車の多さ」の異常さが分かり
ます。
  B もう一つ注目したいのは車保有台数の内訳です。国土が非常に広いアメリカでは乗用車よりもトラックやバス
     の台数が上回っていますが、
ヨーロッパ諸国を見るとトラックやバスの台数は乗用車に比べて桁違いに
    少なく
なっています。理由として考えられるのは「貨物輸送が環境に優しい鉄道に大きく依存している」
     とです。
  C ヨーロッパを旅した人なら覚えがあると思いますが、
たいていの都市には路面電車が走っていて、多くの人
    々が日常的に利用
しています。しかも、多くは乗り降りし易い低床車の長編成(3〜4両)で、市内くまな
     く路線が張り巡らされているため非常に便利
です。日本でも富山市など地方都市では少しずつ路面電
     車の整備が進んでいますが、
大都市では自動車交通を優先させる方針から路面電車はほとんど見ら
     れなくなってしまい
ました。ヨーロッパではこのように路面電車が生活の便利な足にもなっているため、
     車に頼り切る考え方が存在しない
ようです。
  D Cでも分かるように、
日本とヨーロッパ諸国では交通というものに対する考え方が正反
    対
なのです。日本では効率が最優先であり何よりも速いことが重視されています。しかし、ヨーロッパで
     は効率をある程度下げても安全性や環境への負荷の低減を優先させ
ているのです。私も時折見かけま
     したが、ヨーロッパの観光地でほとんどの人々がゆったりしている中でセカセカ動き回っているのはたいてい
     が日本人でした。
日頃からの「速いことが一番」の習慣が抜けきらないのです。

 X 高齢者が起こす相次ぐ事故の背景にあるもの

   @ 最近は
高齢者による事故の話題が世間を賑わすことが多くなりました。原因のほとんどはアクセルとブレー
     キの踏み間違い
ですが、メーカーは構造上の問題があるとは認識せず対策を施そうとはしません。加齢
     による能力の低下が踏み間違いを起こしているとの立場
です。
   A しかし、
根本的にはWで述べたようにこの国の異常極まる車密度の高さが原因であ
      り、残念ながら
今となってはこれを改善するのはもはや不可能と思われます。
   B このように
人々が車に過度に依存するようになった原因は色々あるでしょうが、一つには輸出による外貨
     獲得の主役となった自動車産業を国や経済界が手厚く保護し過ぎた
ことがあると思います。そこには
     い将来国内の交通事情がどうなるかへの配慮や疑問が介入する余地はなく
、GDPが増えることしか関
      係者の脳裏にはなかったのでしょう。
   C 更に、
東京一極集中にともなう地方の衰退の結果、地方では中心都市でさえ商店街のシャッター通り化が
      進み、大型店が進出しても車でないと行けない郊外がほとんどであるため、
高齢者が車の運転をせざるを得
      ない状況が生じて
います。車なしでも買い物やその他の用件を済ますことのできるコンパクトシティが話
      題になるようにはなっても、時既に遅しといった感
がありお先真っ暗です。
   D 最も目立つのは、
この国の政治家には公共交通を守る姿勢がほとんどないことであ
     り、ヨーロッパ諸国のような公共交通優先の考え方が欠けている
ことです。地方の
      鉄道会社やバス会社は車の増加に伴って経営が苦しくなり、路線の縮小や減便、やがては廃止
      へと進むことが多くなって
います。そのため、特に高齢者は車をやめたくてもやめられず、いつ直面する
      かも知れない事故への恐怖と共に生きているのです。


   私は70歳の誕生日を期して車の運転から完全に“足を洗い”ました。40歳くらいまではまだ幼かった子どもを別に暮
  らしていた母に日中だけ預けなければならず、また、その後住むようになった新興住宅地には駅までの交通手段がなかったりで、やむを得ず
  車を使用していたのです。しかし、この頃になって住宅地から駅までの路線バスが開通し、通勤に車を使う必要がなくなりました。バスの本数
  は
時間に朝夕は4,5本、日中は2,3本ですが、これだけあれば十分です。

   
元々好きではなかった車の運転をできるだけ早くやめたいと思っていた私ですが、この頃になるとマナー以前のルールさえ無視す
  るドライバーが少しずつ目立つようになり
、このままではいつか大事故に巻き込まれるのではないかという恐怖心が高まってきました。そこで
  
区切りよく70歳の誕生日で運転をやめることにしたのです。まだ車自体はしっかりしていましたが、そんなことは問題外で一日も早く
  事故の被害者や加害者になる危険から脱出したかった
のです。

   こうして
車から離れたときの爽快な気分は表現のしようもないくらいでした。鼻歌気分で運転を楽しむ気にはなれず始終緊
  張状態を強いられていただけに、それから
解放された喜びは非常に大きいものでした。私にとっては、車はいつ自分自身をどん底に
  突き落とすかも知れない厄介者だった
のです。
  
   車から離れて以後は、
90歳になる今までずっと買い物などは徒歩と自転車で済ませています。若い頃からずっと人混みが大の苦
  手だったため、
エレベーターやエスカレーターは余程のことがない限り使ったことがなく、そのためもあって足腰は人並み以上に強く、
  低山などのハイキングを楽しんでいます。

   確かに、国の交通行政の無策から
地方では公共交通が壊滅状態にあり、どうしても車に頼らざるを得ない事情があります。しか
  し、少しでも可能性があるのなら、
高齢者は早く車の運転に決別する方が自身や家族にとって良いと思います。身体
  の老化を遅らせるためにもその方が良い
ことは明らかです。
    
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無名人の独り言 66  (“非国民”の目から見る改元騒動)  (2019.5.4)  
 「改元で時代が変わる」という錯覚に酔いしれる奇妙な現象

この数週間続いた改元に関わる騒動もやっと落ち着いてきたようですが、この間のメディアによる「改元めでたし」一辺倒の報道には呆れるほかありませんでした。例によって各TV局は横並びに同じようなテーマを取り上げ人々の好奇心をあおるやりとりを繰り返すばかりで、それぞれの物事の本質に迫る討論などは皆無に近かったように思います。何事もあいまいのままにしておくことを好む日本人には、面倒で楽しくない理屈よりも感覚的にすんなりと受け入れられるホンワカムードの方がずっと有り難いのでしょうが、この国でいまだにタブー視されている皇室関係の問題(例えば、憲法の男女平等と天皇の関係、憲法の政教分離と皇室行事など)は放っておく問題ではないのです。

そもそも、
改元とは一体どんな意味を持つのでしょうか?私に言わせれば、これは天皇家における代替わりの節目であって日本という国の時代の変わり目ではないのです。従って「平成の時代」から「令和の時代」に変わったという見方は適切ではないと思います。改元と同時に世の中が大きく変わる訳ではないのですから。
この国の時代(ありよう)が最も大きく変わったのは、敗戦と同時に軍国主義から民主主義に変わった194515です。実際に憲法で規定されたのは少し後になりますが、現人神(アラヒトガミ)だった天皇は国民統合の象徴となり、この国の主権者は天皇から国民に変わりました。これだけの劇的な変動は世界的にも滅多にないことです。

国際的な常識(慣例)から見れば、
“大元帥閣下”として旧日本軍の最高の地位を占めていた昭和天皇は、まぎれもなく連合国にとっての戦犯第一号でした。実際にそうならなかった理由はただ一つ、「日本国民の天皇に対する崇敬の念が尋常ではないため、もし天皇に罪を着せれば占領政策の実施はおろか国を挙げての大規模な暴動などで収拾がつかなくなる」と分析したGHQが、占領をスムーズに行うためにそれを断念したからなのです。その結果が現憲法に示されている天皇の立場「日本国民統合の象徴」ということになります。

明仁天皇はそのことを十分に承知した上で“象徴”としてのあり方を熟慮し、父昭和天皇に代わり戦争とそれに伴う多くの犠牲への贖罪、加えて弱い立場の人々への励ましに力点を置く活動を続けてきました。平和を何よりも大切に思い、災害等に見舞われた弱者を親身になって労る姿は敬服に値するものでした。皇室という独特の“閉鎖社会”に入った美智子皇后を周囲の批判から守るのも、並大抵ではなかったに違いありません。退位を前にしてのメッセージにも在位中にずっと守り続けてきた思いが赤裸々に示されていて、誠実な人柄が言葉の端々に表れていました口では寄り添うと言いながら実際は蹴飛ばす行為を平然と行っているあの独裁者も、少しは見習うべきです。

それにしても、よくもまあ色々な形で改元を利用するものだと思います。カウントダウンのバカ騒ぎは極端ですが、平成(ヘナリ)駅の入場券、御朱印や記念シートなどよく見つけるものだと感心してしまいます。
このくらいの熱心さで、日本の置かれている立場や国内政治の状況を考えて欲しいものだとつくづく思います。
主権者でありながら国のあり方を必ずしも信頼し切れない政治家集団に丸投げしていては、将来何があっても自己責任ということになってしまいます。

新年を区切りとして気持ちを新たにするように、
改元を境に自らの気構えを改めるのは悪いことではないでしょう。しかし、改元を理由に政治家や企業などが行ってきた過去の様々な不正や犯罪までも、忘れたり水に流して許してしまうのは飛んでもないことです。いわゆる
“平成”の30年間は、今なお抜け出せずにいる経済的な不況、大地震や集中豪雨などの激甚災害の多発、残虐な犯罪の激増、不安定な雇用環境がもたらす格差の拡大など負の側面も少なからずありました。唯一双手を挙げて評価できるのは「他国との戦争がなかった」ことですが、これとてイラクや南スーダンで自衛隊が遭遇した一触即発の事態のように“薄氷を踏んだ”こともあり、手放しで喜んでいられる状況ではないのです。

 この30年間に進行した負の部分にも注目を!

報道によれば、新元号を「令和」にする過程にもあの独裁者が深く関わっていたようです。そういえば、新元号候補の一覧表でも真っ先に令和が書かれていました。従来の中国の古典由来の元号から万葉集由来の元号に変わることを「国書から」と誇らかに強調するなど、自らの関わりを国民に強く認識させたかったのでしょう。戦争経験者である私には、初めて「令和」を聞いた瞬間「命されたら文句を言わずに“付雷同”せよ!」と言われたように感じられたのですが・・・。

この
30年間に大きく変わったことは多々ありますが、私が最も注目するのは「戦争に巻き込まれる危険の増大」です。世界中が不安定化して各地で紛争が続き、スリランカやニュージーランドのような“楽園”でもテロが起きる時代になってしまいました。アフリカだけでなくヨーロッパなどでも極右政権が誕生したり右翼政党が勢力を伸ばしたりしています。こういう状況に加えて、日本を忠実な飼い犬としているアメリカをあの大統領が手に入れてからというもの貿易問題や環境問題、更には軍事的な分野でも世界中をかき回し、産軍複合体や自らの支持基盤の利益のためにいつ戦争を始めるか分からない状況を作り出しています。そうなれば、当然日本は逆らうことのできない便利な手下として利用されます。注意すべきは「日米安全保障条約は“日本を守るため”ではなく“アメリカに被害が及ばないよう日本を盾にするため”に結ばれた条約」ということです。日米地位協定の驚くほどの不平等さも、アメリカ軍の活動を阻害しないことが最優先になっていると思います。どこに首都圏上空の大部分を他国の軍用機が優先的に飛び回る独立国があるでしょうか?

独裁者
安倍晋三がこの間に閣議決定や相次ぐ強行採決によって成立させた法案は、自衛隊の活動範囲の拡大をもたらし、今ではシリアの国連停戦監視団に隊員を派遣するまでになっています。現在まで幸い自衛隊員の死者はありませんが、事実上の戦場で活動した隊員の中には帰国後心の病に苦しむ者も少なくないそうです。

一方では、
特定秘密保護法のように何を秘密にするかの基準が不明確な法案も存在し、
不都合な事実は国民に知らせないことも可能になっています。耳障りなメディアには電波停止などをちらつかせて脅しをかけ、その効あって最近はTVも新聞も本来最も大切な使命である政治の監視には及び腰になっています。こうして人々は事の真相を知るすべを失い、陰で少しずつ進行する破局への道にさえ気付かずに日々の生活を送るようになるのです。

「平成」の間に進行した負の側面の筆頭は「様々な格差の拡大」だと私は思います。経済的な格差は企業間でもありますが、家庭間や個人間でも目立つようになってきました。同じ高齢者でも、一部の富裕層は他の大多数が逆立ちしても追いつけないほどの資産を手にしている一方、その日の暮らしにも困って生活保護に身を委ねる人も少なくありません。働き盛りは人減らしでも仕事は減らず、かけ声ばかりの「働き方改革」の中でサービス残業に苦しめられています。最も悲惨な立場にいるのは若い非正規労働者であり、低収入と不安定な身分で将来の見通しなど立たない状況です。また、情報の格差も場合によっては致命的な結果をもたらします。スマホ全盛の時代になりスマホさえあれば何でも情報が取得できる一方、インターネットと無縁な人々は最も身近な情報にさえ触れることができず置き去りにされてしまいます。これは災害などの緊急時には非常に大きな問題を引き起こすことになります。

産業界で枚挙のいとまがないほど不祥事が起きるようになったのもこの30年間です。最近は大企業でも次から次へとデータの改竄や手抜き工事、不正支出などが行われ、そのたびにトップが米つきバッタのように「二度と再び・・・」と保証のない謝罪を繰り返しています。その一方では、傘下の中小企業や働く者に犠牲を強いながら巨額の資金を溜め込んでいる始末です。生きている人間をまるでモノのように扱い、企業の都合でいつでも首切りができる現状には唖然とします。“企業の社会的責任”などという言葉はもはや死語に等しい昨今です。

片や
政界でも負けじとばかりの腐敗がまかり通るようになり、お友だちとお気に入りを臆面もなく重用する独裁者安倍がその根源となっています。全く疑いの晴れないモリカケ問題は勿論ですが、国会議員としての資質すら感じられない人物を大臣に登用したり、国会軽視も甚だしい振る舞いを続けています。今後も恐らく絶対多数を恃んで勝手放題を続けることでしょう。腹立たしいことですが、現状では何ともし難いことは明らかで、ストレスが溜まるばかりです。

権力欲や金銭的な欲得のためにせっせと弱い立場の人々を切り捨て、期待を寄せる人々の信頼を裏切り、この国の社会にモラルの低下を招く悪循環の源となっている輩が消える日は果たして来るのでしょうか?
 
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  無名人の独り言 25  (戦争とは無縁と思い込んでいる戦後派の人々に)
                                                   (常時掲載) 
                                                            
ゲームや映画では見ていても
実際に戦争を経験していない人々には、私がなぜこのように安倍政権を危険視するか中々分からないと思います。そこで、いくつか述べてみることにします。

  
ここに注目!!

 @ 
戦争は一般の人々が起こすのではなく、例外なく時の権力者の主導によって引き起こされるのです。
 A 
戦争はいきなり起こるものではなく、必ずかすかな前兆から始まり徐々に確かな形になっていくのです。
 B 
情報を隠したり積極的に人々に伝えようとしなくなるのは、やがて戦争へとつながる危険な兆候です。
 C 一旦
戦争が起きてしまえば人々は否応なく巻き込まれ、反対や抵抗は事実上不可能となります。
 D 
戦争で犠牲になるのは常に一般の人々で、自由は剥奪されて権力者の道具とされます。
 

このように書いても、
戦後の平和憲法下でぬくぬくと(失礼!でも事実!)生きてきた人々は「まさか戦争なんて!」と一笑に付してしまうかも知れません。あの国会前での抗議集会のときにも「戦争なんて起こる筈がないのに、何を大げさに騒いでいるんだ!」という意見の人が少なくありませんでした。デモ行進をしてもそれに共鳴する雰囲気はあまり感じられず、見方によっては冷ややかとも受け取れました。

しかし、多くの知識人や憲法学者、元自民党の有力者たちまでがこぞって反対した集団的自衛権容認を突破口とする
安倍一派のやり口には、太平洋戦争の経験者の目には戦前の日本を彷彿とさせるものがあるのです。国民の目と耳をふさいで物事の真実を知られないようにしておき、その裏でどんどんと戦争への道を進めていったのが当時の軍部が事実上独占していた政府です。国の動きに少しでも疑問を抱く言動には厳しい統制と国家権力による迫害処罰が行われるため、一般の国民が声を挙げることなどは到底無理な時代だったのです。全体主義の世の中は現在のような有り余る自由を手にしている世の中とは異次元の世界でありとても比較にならない厳しい環境を強いられた時代なのです。

現在はまだ形の上では民主主義の時代であり、人々はどんなことでも自由にものを言ったり書いたりできます。こうして政府やお偉方の批判も自由にできます。何事でもそうですが、普段何の制約もなくできることはいつしか当たり前のように思ってしまい、それがどんなに貴重なことなのか意識せずに過ぎてしまいがちです。

同じ「戦争」と言っても、
太平洋戦争は日本が自ら起こした戦争であるのに対し、私が今ここで強調したい「戦争」は「アメリカがいつか起こすであろう戦争に巻き込まれる形での戦争」です。広い意味ではもう既に「新しいタイプの戦争」であるISを筆頭とするテロ集団による攻撃に日本も巻き込まれているのです。2020年のオリンピックは果たして無事でしょうか?オリンピックはテロリストにとってはまたとない美味しい標的です。テロは攻撃する側が絶対的に有利な立場であり、いつ、どこで、どんな方法で実行するかはテロリスト側が自由に選ぶことができるのです。しかし、防御する側はいくら事前に対策を強化しても限界があり完全に防ぐことは不可能です。最近世界各地で起きているテロを見ればそのことは容易に理解できると思います。

「まさか戦争にはならないだろう」という楽観的な見方に頼りたいのは人間の心理に違いありませんが、そう言い切れないのは
人間には時には理性を凌いでしまう感情という厄介なものがあるからです。

特記したいのは、
「アメリカという国には巨大な産軍複合体(経済界と軍が一体となって互いが“持ちつ待たれつの状態を保ち続ける”関係)が存在」し、その体制を維持するために世界のどこかで常に直接間接の戦争状態が存在することが望ましいと思われていることです。

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私のホームページ作り
 ホームページを作ったきっかけと、その後の経過

私がこの
ホームページを作ろうと思ったきっかけは若い友人の何気ない一言でした。私は1994年頃から旅行プランを自力で作るのが当たり前になっていましたが、あるとき偶然スイス旅行の細密なプランを彼女に見せたのです。そのときに彼女が口にしたのが「このようなプランの立て方は滅多にないので、もっと大勢の人々にも知ってもらう方がいいですね?」という言葉だったのです。そのときはさほど気にも留めなかったのですが何年かののちに突然これが頭に浮かび、そのためにはどうしたらいいかを考えるようになりました。

そこで思い付いたのがホームページですが、旅行プランだけではあまり意味がないので、いっそ旅行写真を公開しようということになりました。以前から写真だけはきちんと整理してあったので、何とかできそうに思えたのです。ただ、
このとき既に72歳で、本式にプログラム言語などを身につけてからサイトを作るのではあまりにも遅くなってしまいます。

幸運なことに、この頃ちょうどホームページビルダーが発売され、「よし、ひとつこれを使ってホームページを作ってみよう」ということになりました。
「何でも他人に頼らず自力で・・・ 」が私の流儀でもあり、マニュアルと首っ引きでページ作りに励みました。その甲斐あって、200416日に初めてのサイトをアップすることができたのです。ほんの15枚のサムネイル画像でとてもお話しにもなりませんが、自分の作ったページがインターネットに載り、それを大げさに言えば全世界の人々が見ることができるという事実には正直興奮を覚えました。

回を重ねるごとにサイトを構成するページが増え、掲載する内容も海外旅行の写真だけだったのが国内旅行の写真も加えるなど、ホームページビルダーへの慣れもあって順調にサイトの充実を進めてきました。途中でしばらくの間外国人向けに英語ページも作ったのですが、これは失敗でした。諸外国からの怪しげなメールが激増したのです。結局、
未練はあったものの英語ページは年間ほどで閉じてしまいました。

お気づきでしょうが、
私のサイトにはCMが全くありません。あるのは検索サイトと素材等でお世話になっているサイトのバナーだけです。山、旅、鉄道、写真をメインに作ってあるのが私のサイトなので、その雰囲気を壊してしまうCMは絶対に入れたくないのです。私のCM嫌いは昔からのものですがとにかく徹底しているのです。今では番組の前後に限らず途中でものべつ入るのが当たり前になっているTVコマーシャルは、一つの番組を通してきちんと見せる本来の使命に背くものだと思っています。保存したい番組の場合は一旦録画しておいてCMを削除してからDVDにコピーしておきます。

少し脇道にそれてしまいましたが、こうして作られた私のサイトには普通のサイトとは違う点がいくつかあります。先ず、
更新回数が非常に多いことです。2004月にホームページを立ち上げてから2007年末まではヶ月半毎、2008年から2015月までは毎月日に更新してきました。トップページにも書いてありますが、数千枚の写真を一度には掲載できないので、数回(現在は回)に分けて掲載するからです。プロバイダーが変わってディスク容量が大幅に拡大し一度に掲載できる写真の枚数が飛躍的に多くなったため、閲覧期間を延ばす必要からヶ月毎の更新にしました。これまでの百数十回にのぼる更新の都度、少しでも良いサイトにできないかをいつも意識して改善に意を尽くしてきた結果、何とか見られるものになったのではないかと思っています。私にとってホームページの運営は今では生き甲斐の一つにもなっているので、「頭の上にリングが浮かぶ」まではこのサイトを少しでもよいものにしていく努力を続けていくつもりでいます。

一部のページを除けば、各ページの左端に並ぶミニ画像(親指の爪文字通りのサムネイル)一度のクリックで拡大画像
(600×450 or 450×600 pix)が見られるようにしてあります。このことは同時に写真を用意する手間が普通の場合の倍になることを意味しますが、因果なことに私はこの種の細かい作業は一向に苦にはならない変わり者なのです。

BGMとして使用している曲は、有名な名画「サウンド・オブ・ミュージック」の中でナチスに抵抗するトラップ大佐が、ナチスドイツに併合される祖国オーストリアの悲運を想いそのシンボルとして歌っている「エーデルワイス」です。日本でも早池峰山などに同種のウスユキ草が咲いていますが、ヨーロッパアルプスの雰囲気が何よりも好きな私にとって、それを身近に感じさせてくれるエーデルワイスの花を讃えるこの曲はBGMとしては願ってもないものなのです。
 
  多くのサイトに接して気付いたこと

色々なサイトを閲覧すると参考になる点も多くあることは確かです。その反面、必ずしも見やすく構成されているとは言えないサイトもあります。また、
CMだらけで主題が何かが分からない状態になっているものもあります。突然にサイトが見られなくなることもありますが、このようなときは、URLが変更になったのか、それとも管理者がサイトを閉じたのか分かりません。

私がずっと利用してきた
OCNPageON(ホームページ掲載サービス)が2015月で終了になるため、プロバイダーをBizメール&ウェブに変更した結果、当然のこととして私のサイトのURLが変わりました。そこで、検索サイトと相互リンク先へその旨を連絡したのです。検索サイトのYahooはすぐにURLを変更してくれました。ところが、相互リンク先については様々な問題が見えてきたのです。

URLの書き換え依頼メール(メールがないサイトには掲示板で)は、月上旬にそれまで相互リンクを結んでいた68サイトに送りました。しかし、それからのヶ月間に書き換えてもらえたのは24サイトだけです。現役の人々の多忙さももちろん大きな理由だと思いますが、他にも見えてきたことがあります。一つは更新回数が少なくメール(掲示板も)に目を通す機会がない場合です。中には最後の更新が年以上も前のままのサイトもありました。また、メールアドレスが変わったのか連絡のしようがないサイトもいくつかあり、この場合は諦めるしかありません。リンク集があるはずなのにクリックしても表示されないサイトや、とてもきちんと作られたサイトなのに「リンク集」と書いてありながらそこへのリンクがされていないサイトもありました。

これらの現象の底流になっているのではと思われるのは、
「自分の作ったサイトに対する関心(注意)」が薄れているのではないかということです。どんなに簡単なサイトでも、一旦インターネットに上げればそれを不特定多数の人々が見る訳でいつも責任を持てる状態に保つことが大切だと思うのですが、間違っているでしょうか?今やスマホ全盛の時代になり人々の関心がそちらに移っているようにも見えますが、パソコンにはそれなりの長所もあるのです。自分のサイトには責任を持ちたいものだと思います。
 
 
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